高橋源一郎氏と中原中也賞・現代詩をめぐる問題について

当方、ご多分に漏れずTwitterをやってるのですが( http://twitter.com/hi_doi )最近気になるツイート(つぶやき)を眼にしまして。

どうやら高橋源一郎氏と『新潮』に対し、若い詩人達が憤っているという噂なのですが。
若き詩人達がホントに「憤っている」かどうかはさておき、気になったのでちょっと調べて、という程の行為ではなく単に検索してみました。
そうしたところ、こちらの文章がHITしました。
http://www.shinchosha.co.jp/shincho/tachiyomi/20100607_2.html
高橋源一郎氏のコメントから読みとれた概略だけ書くと

中原中也賞(現代詩対象の文学賞)の審査をしていた高橋源一郎氏が、自分が推した詩人が受賞を逃した事を惜しみ、Twitterで事情の前フリと、推した詩(全文)をツイートしたところ反響があり、その詩人の詩(自費出版した処女詩集の大半)が『新潮』に掲載されることになった」

で、もしこの概略が全てで、それに詩人達が憤ってるだけであれば単なる「ねたみ」の類になってしまうのですが、事はもう少し根が深いように思えます。

検証してみました。

1.上記概略から読みとれる問題。

まず前提として。
個人的には「著名な人物による無名な人物の『引き上げ』」自体は問題では無いように思います。

ストラビンスキーによる武満徹氏の評価が、武満氏の、後の日本国内における(無視に近い状況から一転し、手のひらを返したかのような非常に高い)評価、さらには国際的名声につながったという「伝説」を引き合いに出す必要もないでしょう。

・・・ここで、まず問題になるのは高橋氏が「中原中也賞の審査員であった」という点です。

自らが審査員を務める賞の価値を高橋氏自身の手によっておとしめる行為に見えるのですが。

細かく言えば「賞の審査を複数の審査員で行うという行為を否定している」ようにもとれます。

例えば審査員の票が割れ、まとまらず、複数の受賞者が出る場合はイイでしょう。文学賞ではよくある事とも言えます。

しかし今回の場合、高橋氏は中原中也賞受賞作の「受賞」に一度は賛同している(上記URL内にも記述がある)のですから、そのルールには徹底して従うべきではなかったのでしょうか?
こうした行為が認めらるのであれば、文学に限らずあらゆる「賞」「コンクール」の意味は剥奪されたも同然なのではないでしょうか?

もし高橋氏にそこまでの覚悟があって、文学賞そのものとまでは言わなくとも、少なくとも中原中也賞という賞の審査方法・基準に不満があり、それに対する反発・意志表明、という形であればそれはそれで意義があるとは思います。その行為に対する反論・不満を引き受けるワケですから。
しかるに上記のURL、あとで引用するURLでの発言ではそうした覚悟があるようには見えないのです。

もし内面にそうした思いがあるのならば申し訳ないです。とはいえ、その表明は具体的に、わかりやすい形で行われなければならない、とは思いますが。

2.詩に対する高橋氏の言動ついて

今回、問題になった高橋氏のツイートの「まとめ」サイトです
http://togetter.com/li/24423
高橋氏が詩についてどう考えるかは個人の信条なので問いませんが(それにも個人的に考えがあるので後述)気になる発言が一カ所ありまして。

「ぼくは素人だから、好きにいわせてもらうけれど」
(上記URL内takagengen2010-05-27 00:41:40より引用)

中原中也賞の審査をする立場の方の発言としては問題があるように思えます。

「自分は小説家であり詩人ではないので詩の素人である」という意味合いなのでしょうが「素人だから、好きにいわせてもらう」事がしたいのであればなぜ審査員をやっているのでしょうか?

「素人」の目線が必要、ということもあるでしょう。しかし素人でよいのならば、高橋氏である必然性もないのです。

「素人が審査している賞である」と審査員が宣言しているともとれるこの発言でもまた賞の価値をおとしめているように思えます。

3.さらに個人的な

ここから先は完全に私の主観です。

上記のツイートの「まとめ」を読んでいてとても気になったのが実は
「高橋氏が「現代」詩についてどのような考えを持っているか」
という根本的な部分でして。

「現代詩」が現代詩たり得るのは、当然そこに「現代」という同時代性があるからです。

高橋氏は「現代詩」の問題は「多くの詩の内容が詩人自身の内側にのみ指向され外界に対する興味を失っている」と(ツイートで)指摘しています。
「外向きの詩こそが書かれるべき詩」であると。
そして自分が推した詩は数少ない「外向き」の指向を持つ詩であると。

もし現代詩の世界が高橋氏の印象通りだとしたら・・・仮にその大雑把な分類「内向」と「外向」に分けたとして、高橋氏の主観による詩の世界での比率は「内向9:外向1」と言った感じでしょうか?

そうした比率があるとするならば(その大雑把な分類自体、詩人一人一人に対して失礼な気もしますが)その比率にこそ「現代性」現れているともいえないでしょうか?

9割の詩人が「内」に向かう状況自体が「現代」であり、それを否定することは詩の同時代性そのものを否定することにならないでしょうか?

あらゆる文化は時代の振り子に乗っているとも言えます。

仮に今が「内向き」の時代ならば、必ずそのカウンターカルチャーとしての「外向き」の時代がくるでしょう。そしてそんな「現代」であっても「内向き」な詩人は必ずいるはずです。

むしろ「書かれる指向の比率が全作家で五分五分」の文学があったらそのジャンルは末期症状だと言えます。
動かない振り子。変化が起きにくくなれば、情報という名の血流が止まり、死に向かう他ないでしょう。

・・・

高橋氏が「現代」を感じさせる具体的な方法に挙げていた
「その時代の口語の導入」
(高橋氏は「現代詩はその導入に失敗し、そのため現代性を失った」ように書いています)
も確かに一つの方法でしょうが・・・それだけで「現代詩は同時代性を得られる」と高橋氏は本気で考えていらっしゃるのでしょうか?

さらに高橋氏の論に沿って言えば・・・「内向き」の指向がその文学ジャンルを滅ぼさなかった、むしろ活発にした具体例があります。

SFです。

70年代まで外側と「科学」という名の客観を重視していたSFにあらたな血を注ぎ込んだのがP.K.ディック、J.G.バラードらに代表される「ニューウェーブSF」でした。
(さらに言えばそれ以前にF.ブラウンやヴァン・ヴォクトという偉大な「非外界SF]のイノベーターが存在しましたが)

SFというツールを用いて「宇宙」ではなく「精神」という「内面の宇宙」にアプローチした作品群は、当時、一部で「SFと呼びがたい」という非難を受けつつ、後のSFに多大な影響を及ぼし、現代SFに連なる命脈を繋いだのです。

そしてそれらの作品の現代性は・・・例えばヒッピー文化華やかし頃に「ヒッピーの存在が理解できない。外面が人間で中身は違うようだ」と考えたディックが、その「拒絶」を出発点にした『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』等を読めば明らかでしょう。
そこには同時代に対するアンチテーゼそのものが結果としてその作品の(当時の)現代性を表出しているのです。

ある意味それもまた「外に対する興味」と逆説的に言えるかも知れませんが、であればそれは高橋氏が「内向き」と評する詩人の詩にも同じ事が言えるように思うのですが。

そして。ここまで高橋氏の論と印象に基づいて書いてきましたが・・・

4.蛇足

実際には集団競技では無いのですから、具体的な「詩」そのものに関しては比率ではなく個々に評価されるべきです。

私は外向きだろうが内向きだろうが、それが作者にとって切実なモノであればリアルであり、現代性を獲得する、と考えています。
(むろん、その作品が受け手の理解を得られるかどうかは別の話ですが)
今生きている作家が書いたものであれば、我々は同じ時間軸を共有しているはずなのです。

もしもその時間軸が他者と共有されておらず、パラレルなものと考える人であれば、その人は内面へのダイビングを経なければ生きると言うこと自体難しいでしょうし、外界との相関性・相対性を問題にしなければなりません。

そしてそうした流れを経た詩がおそらく、高橋氏が求める「現代詩」なのでしょう。

ただ、もしもそのようなバランス(危ういバランスを含め)感覚に優れた詩人・作品ばかりだと、世界全体の多様性が失われ「つまらない」気がします。
(詩人一人一人の価値とは別の話です)

その多様性が偏ったものであっても。いやむしろ極端なバランスを取る世界にこそ面白みを感じます。私は。

それにたとえ内面へのダイビング
(感覚と感情と記憶との相関。その発見の繰り返し。実際にはそこにも常に外部からの情報流入とその処理が反映されている)
が主目的であっても、その人が生きている以上、必ず外界との相関性・相対性について考えざるを得ないわけですから、どんな詩であってもその行間から「外」が見えるはずなのです。

なにより前提として、人間の構造上、客観的な外部などどこにも存在しないのですから。

5.最後に

この文章は、高橋氏の小説作品を否定する文章ではありません。

また当然、高橋氏が認めた詩を否定する文章ではありません。

問題にしているのは、今回の行為に関してです。

そして、高橋氏がご自分の影響力を知った上で今回の行為に及んだのであれば、それがなにより問題であります。
やはり自分の影響力を知らずに・・・とは思えないのです。

乱文、長文失礼いたしました。

参照
中原中也賞wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E4%B8%AD%E4%B9%9F%E8%B3%9E