水見稜『マインド・イーター [完全版]』を読んで

2010年にコチラの記事 http://d.hatena.ne.jp/super_mariso/20100908 を投稿した時にはよもやその一年後に「完全版」を手にする事になろうとは、正直夢にも思わなかった。
(最初に書いたオリジナルの文章は2006年4月にmixiのレヴューに投稿したコチラ… http://mixi.jp/view_community_item.pl?comm_id=776195&item_id=460197


水見稜『マインド・イーター[完全版]』(創元SF文庫)
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488742010

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今回、著者のあとがき、飛浩隆氏/日下三蔵氏両氏による解説(水見稜作品リスト有)を巻末に加え、なによりSFマガジンで発表されながらもハヤカワ文庫版未収録だった二編『サック・フル・オブ・ドリームス』『夢の浅瀬』が収録され、この傑作SFの全貌が明らかになるという、[完全版]の名にふさわしい本となったのが本当に喜ばしい。

そして久しぶりにその『サック・フル・オブ・ドリームス』を読み(『夢の浅瀬』は手元に当時のSFマガジンがあり、たびたび読み返していた)あることに気がついたのである。

以前、気がつかなかった事なのだ。
全作をまとめて読み、そして飛浩隆氏の解説にも刺激を受け、思ったことである。

『サック・フル・オブ・ドリームス』の舞台はNYで、二人の男と二人の女が登場する。
男は亡命クラシックピアニスト・ラディマーと黒人ジャズサックス奏者・トニー。
女はライブハウスのジェニーと歌手のマリア。

トニーとマリアは恋人同士であり、マリアはM・E症(作品に登場する病。宇宙に存在する人類の「敵」マインド・イーターに精神を食われた人間と「結びつき」のある人間に独特の症状が現れる。最悪、結晶化する)に侵され、言語でのコミュニケーションを取れない状態となっている。

トニーとマリア、そしてNY。ここまでベタな連想はない。最初に読んだ十代の頃はそう思った。いわずと知れた『ウエストサイド物語』である。

しかしである。あらためて読んで、ふと思った。
亡命ピアニスト・ラディマー。しかし80年代初頭に「NYで活躍する亡命芸術家」で連想する人物と言えば、ミハイル・バリシニコフではないだろうか。

ピアニストではなく、バレエダンサーである。

そこまで考え、ハッとして第一話『野生の夢』を読み返した。

M・E症を研究するドクターがこう言っていた。

「わたしは思いつく限りの専門外のことをかじってみましたよ。地球上に現存する最下等から最高等までの生物七〇〇種を選び、その形質を全てコード化します。すると想定される進化線にそって七〇〇のコードが直線的に並ぶわけです。そしてそのかたわらで、ボディ・ランゲージ、創作ダンスのパターン、ロールシャッハテストの回答分析など思いつく限りの表示側コードを探し出し、両者をつき合わせることで、M・E患者が進化のパターンを視覚化していることをなんとか証明できないものかとやってみたんです」
水見稜『マインド・イーター[完全版]』創元SF文庫収録『野生の夢』より抜粋)

この『野生の夢』における、主人公ギュンターとドクターによる会話のシーンには、後に連なる短編群の要素が既に予言されている。「楽器」「音楽理論書」が登場し、重要な要素となる「音楽」が示唆され、非対称性についての話題は『野生の夢』後半の「言語」についての考察に登場し、「言語」については後の『おまえのしるし』に連なっていく。

しかし先に引用した台詞で登場する「ダンス」について、この後具体的に言及されることはなかった…と思っていた。

しかし、違うのだ。考えてみれば全ての作品において人間の「肉体」「身体性」が取り上げられない話はなく、つまりあまりに堂々と提示されている所為でその要素について「底流」と考えることすらなかったのだ。

短編ニ作目の『サック・フル・オブ・ドリームス』において「音楽」と「ダンス」が密接に結びついた「ミュージカル」である『ウエストサイド物語』の登場人物の名を使い(M・Eを挟んだ『ロミオとジュリエット』と考えても面白いのだが)亡命芸術家でバレエダンサーを連想させるという時点でそのことに気がつくべきであったのだ。

であれば『サック・フル・オブ・ドリームス』の、例えば喧嘩の描写に割いた文章の分量・丁寧さ・迫力の意味、そして肉体的「陵辱」(マリアは精神的な結びつきではなくハンターの「陵辱」によりM・E症となる)の描写の意味とは何か。

『サック・フル・オブ・ドリームス』は、『野生の夢』におけるドクターの台詞で示唆された「ダンス」という言葉を、「ダンス」を暗示する登場人物の行動により「身体性」に普遍化させ(結果としてかもしれないが)後の短編に流れる「底流」にする役割を担っているのではないだろうか。

そして『夢の浅瀬』である。
飛氏は解説で『サック・フル・オブ・ドリームス』と『夢の浅瀬』の「音楽」の取り扱いの差異について語り(この分析が素晴らしい)、この二作が対になっていることを示唆しているが、私は同時に、「身体性と音楽」と「精神と音楽」についてのアナロジーとしても対になっていることを指摘したい。

なぜならば『夢の浅瀬』は、宇宙服越し、モニター越し、無線越しで身体性を隔てる環境の物語であり、音楽が精神を「侵す」物語なのだ。

『おまえのしるし』における、陸上選手たるニールの存在と最後に語られる短距離走とジョギングについて。
『緑の記憶』における、人間と植物の「精神と肉体」
『憎悪の谷』…少年ジャックのセックスについて父ラヴランドが問うシーン、「生き物から食べ物」へは一歩であり、生は食物の前駆状態と語るシーン、父子のこうした会話が印象的でずっと気になっていたのだが、この「身体性」が必要だったのだろう。(そして後述するもう一つの要素がある)
『迷宮』これはまさしく「精神と身体」の物語であり、最後の台詞を考えると、精神の普遍性に対する身体性の、いわばローカリゼーションとも呼べる在り様について語られているともいえる。

そして『リトル・ジニー』である。
飛氏の解説において
「どこか居心地が悪い。この連作でどのような位置づけなのか戸惑いが残る。」
水見稜『マインド・イーター[完全版]』創元SF文庫収録/飛浩隆『人と宇宙とフィクションをめぐる「実験」』より抜粋)
と書かれているが、この視点で読めばその違和感の正体が見えてくるような気がする。
『リトル・ジニー』は、身体性の要素が極端に薄いのである。
男女のセックスも描かれるが、他の短編に比べて印象に残らない。
(例えば具体的なセックスは描かれない『迷宮』における「想像による回想」の方がよほど身体性を意識するだろう)
あえてそうしているようにしか思えないのだが。

そして食事においては「本物のワインとチーズより合成ワインと合成チーズの方がうまい」と語られる。
(先の『憎悪の谷』における、羊をさばき、焼き、食すシーンと対になっているようにも思える)

これは水見稜氏の後の短編集『食卓に愛を』(ハヤカワ文庫JA・絶版)における「松坂・小阪シリーズ」を読めばこの食事のシーンがある種「身体性を否定したシーン」であることを理解できる。
「松坂・小阪シリーズ」で語られる「食」の意味とは、好奇心とコミュニケーションであり、なにより「遺伝子のシャッフル」である。
そう。合成食物ではそれらの条件を全く満たせないのだ。

そしてここまで考えればこの『リトル・ジニー』の位置が明らかになる。

水見稜氏もう一つの傑作SF長編『夢魔のふる夜』(ハヤカワ文庫JA・絶版)に張り出しているのである。

夢魔のふる夜』は「精神と肉体(DNA)の果てなき相克と闘い」が描かれ、さらには「精神と肉体の愛」まで描かれるという壮絶な物語である。

夢魔のふる夜』では「DNAの勝利の一形態」として癌が描かれているが
(『憎悪の谷』で癌vsM・E症が描かれていることにも注目)
『リトル・ジニー』はその「精神の勝利」の一つの形態を描いているのだ。

…同時に。

『リトル・ジニー』を読んで私が連想したのはP.K.ディック『火星のタイムスリップ』(ハヤカワ文庫)である。
この作品では自閉症の少年の精神が世界を侵していくのだが、後の多くの作家に対し大きな影響を及ぼしている。
日本人作家では、例えば神林長平氏の作品には常にその影響が漂い(特に『完璧な涙』『戦闘妖精雪風 アンブロークンアロー』等に私は強く感じるのだが)川又千秋『幻詩狩り』にはオマージュとも言える描写が多い。山田正紀氏は『神狩り2 リッパー』で具体的に書名を挙げ言及している。例を挙げていけばキリが無い。

そうした文脈で読めば非常に「わかりやすい」作品とも思える『リトル・ジニー』を『マインド・イーター』の内部に配置したのは著者の確信犯的手法だと思われる。前回の文章で『おまえのしるし』について書くのに用いた自分の言葉を再び使うならば「印象の檻」に読者を閉じ込めることに成功しているのだ。

そして、それが意図したものかどうかは分からないが、『憎悪の谷』『リトル・ジニー』と並べることで『夢魔のふる夜』と対にもなっているのだ。
(『マインド・イーター』が連作短編であり物語に物語を上乗せしていくような構造である以上、発表順は極めて重要である)

一貫した回答を提示しない『マインド・イーター』において、他の作品群と連関し水見稜という作家が常にテーマとしてきた「精神と肉体」が音量バランスを変え変奏され、一貫している。

では結論は何か?決まってる。

『マインド・イーター』は傑作だが、その真価を理解するために…

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(余談ではあるがミハイル・バリシニコフ主演の『ホワイトナイツ』というダンス映画の傑作がある。グレゴリー・ハインズがジャズダンサーとして登場し、奇しくも『サック・フル・オブ・ドリームス』のダンス版ともいえる、しかも場所と立場が反転している映画になっている。85年という時代のため、アメリカの反共感情を露骨に反映はしているが、ダンスシーンが素晴らしく、お薦めである)