水見稜『マインド・イーター [完全版]』を読んで

2010年にコチラの記事 http://d.hatena.ne.jp/super_mariso/20100908 を投稿した時にはよもやその一年後に「完全版」を手にする事になろうとは、正直夢にも思わなかった。
(最初に書いたオリジナルの文章は2006年4月にmixiのレヴューに投稿したコチラ… http://mixi.jp/view_community_item.pl?comm_id=776195&item_id=460197


水見稜『マインド・イーター[完全版]』(創元SF文庫)
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488742010

Amazonこちら

今回、著者のあとがき、飛浩隆氏/日下三蔵氏両氏による解説(水見稜作品リスト有)を巻末に加え、なによりSFマガジンで発表されながらもハヤカワ文庫版未収録だった二編『サック・フル・オブ・ドリームス』『夢の浅瀬』が収録され、この傑作SFの全貌が明らかになるという、[完全版]の名にふさわしい本となったのが本当に喜ばしい。

そして久しぶりにその『サック・フル・オブ・ドリームス』を読み(『夢の浅瀬』は手元に当時のSFマガジンがあり、たびたび読み返していた)あることに気がついたのである。

以前、気がつかなかった事なのだ。
全作をまとめて読み、そして飛浩隆氏の解説にも刺激を受け、思ったことである。

『サック・フル・オブ・ドリームス』の舞台はNYで、二人の男と二人の女が登場する。
男は亡命クラシックピアニスト・ラディマーと黒人ジャズサックス奏者・トニー。
女はライブハウスのジェニーと歌手のマリア。

トニーとマリアは恋人同士であり、マリアはM・E症(作品に登場する病。宇宙に存在する人類の「敵」マインド・イーターに精神を食われた人間と「結びつき」のある人間に独特の症状が現れる。最悪、結晶化する)に侵され、言語でのコミュニケーションを取れない状態となっている。

トニーとマリア、そしてNY。ここまでベタな連想はない。最初に読んだ十代の頃はそう思った。いわずと知れた『ウエストサイド物語』である。

しかしである。あらためて読んで、ふと思った。
亡命ピアニスト・ラディマー。しかし80年代初頭に「NYで活躍する亡命芸術家」で連想する人物と言えば、ミハイル・バリシニコフではないだろうか。

ピアニストではなく、バレエダンサーである。

そこまで考え、ハッとして第一話『野生の夢』を読み返した。

M・E症を研究するドクターがこう言っていた。

「わたしは思いつく限りの専門外のことをかじってみましたよ。地球上に現存する最下等から最高等までの生物七〇〇種を選び、その形質を全てコード化します。すると想定される進化線にそって七〇〇のコードが直線的に並ぶわけです。そしてそのかたわらで、ボディ・ランゲージ、創作ダンスのパターン、ロールシャッハテストの回答分析など思いつく限りの表示側コードを探し出し、両者をつき合わせることで、M・E患者が進化のパターンを視覚化していることをなんとか証明できないものかとやってみたんです」
水見稜『マインド・イーター[完全版]』創元SF文庫収録『野生の夢』より抜粋)

この『野生の夢』における、主人公ギュンターとドクターによる会話のシーンには、後に連なる短編群の要素が既に予言されている。「楽器」「音楽理論書」が登場し、重要な要素となる「音楽」が示唆され、非対称性についての話題は『野生の夢』後半の「言語」についての考察に登場し、「言語」については後の『おまえのしるし』に連なっていく。

しかし先に引用した台詞で登場する「ダンス」について、この後具体的に言及されることはなかった…と思っていた。

しかし、違うのだ。考えてみれば全ての作品において人間の「肉体」「身体性」が取り上げられない話はなく、つまりあまりに堂々と提示されている所為でその要素について「底流」と考えることすらなかったのだ。

短編ニ作目の『サック・フル・オブ・ドリームス』において「音楽」と「ダンス」が密接に結びついた「ミュージカル」である『ウエストサイド物語』の登場人物の名を使い(M・Eを挟んだ『ロミオとジュリエット』と考えても面白いのだが)亡命芸術家でバレエダンサーを連想させるという時点でそのことに気がつくべきであったのだ。

であれば『サック・フル・オブ・ドリームス』の、例えば喧嘩の描写に割いた文章の分量・丁寧さ・迫力の意味、そして肉体的「陵辱」(マリアは精神的な結びつきではなくハンターの「陵辱」によりM・E症となる)の描写の意味とは何か。

『サック・フル・オブ・ドリームス』は、『野生の夢』におけるドクターの台詞で示唆された「ダンス」という言葉を、「ダンス」を暗示する登場人物の行動により「身体性」に普遍化させ(結果としてかもしれないが)後の短編に流れる「底流」にする役割を担っているのではないだろうか。

そして『夢の浅瀬』である。
飛氏は解説で『サック・フル・オブ・ドリームス』と『夢の浅瀬』の「音楽」の取り扱いの差異について語り(この分析が素晴らしい)、この二作が対になっていることを示唆しているが、私は同時に、「身体性と音楽」と「精神と音楽」についてのアナロジーとしても対になっていることを指摘したい。

なぜならば『夢の浅瀬』は、宇宙服越し、モニター越し、無線越しで身体性を隔てる環境の物語であり、音楽が精神を「侵す」物語なのだ。

『おまえのしるし』における、陸上選手たるニールの存在と最後に語られる短距離走とジョギングについて。
『緑の記憶』における、人間と植物の「精神と肉体」
『憎悪の谷』…少年ジャックのセックスについて父ラヴランドが問うシーン、「生き物から食べ物」へは一歩であり、生は食物の前駆状態と語るシーン、父子のこうした会話が印象的でずっと気になっていたのだが、この「身体性」が必要だったのだろう。(そして後述するもう一つの要素がある)
『迷宮』これはまさしく「精神と身体」の物語であり、最後の台詞を考えると、精神の普遍性に対する身体性の、いわばローカリゼーションとも呼べる在り様について語られているともいえる。

そして『リトル・ジニー』である。
飛氏の解説において
「どこか居心地が悪い。この連作でどのような位置づけなのか戸惑いが残る。」
水見稜『マインド・イーター[完全版]』創元SF文庫収録/飛浩隆『人と宇宙とフィクションをめぐる「実験」』より抜粋)
と書かれているが、この視点で読めばその違和感の正体が見えてくるような気がする。
『リトル・ジニー』は、身体性の要素が極端に薄いのである。
男女のセックスも描かれるが、他の短編に比べて印象に残らない。
(例えば具体的なセックスは描かれない『迷宮』における「想像による回想」の方がよほど身体性を意識するだろう)
あえてそうしているようにしか思えないのだが。

そして食事においては「本物のワインとチーズより合成ワインと合成チーズの方がうまい」と語られる。
(先の『憎悪の谷』における、羊をさばき、焼き、食すシーンと対になっているようにも思える)

これは水見稜氏の後の短編集『食卓に愛を』(ハヤカワ文庫JA・絶版)における「松坂・小阪シリーズ」を読めばこの食事のシーンがある種「身体性を否定したシーン」であることを理解できる。
「松坂・小阪シリーズ」で語られる「食」の意味とは、好奇心とコミュニケーションであり、なにより「遺伝子のシャッフル」である。
そう。合成食物ではそれらの条件を全く満たせないのだ。

そしてここまで考えればこの『リトル・ジニー』の位置が明らかになる。

水見稜氏もう一つの傑作SF長編『夢魔のふる夜』(ハヤカワ文庫JA・絶版)に張り出しているのである。

夢魔のふる夜』は「精神と肉体(DNA)の果てなき相克と闘い」が描かれ、さらには「精神と肉体の愛」まで描かれるという壮絶な物語である。

夢魔のふる夜』では「DNAの勝利の一形態」として癌が描かれているが
(『憎悪の谷』で癌vsM・E症が描かれていることにも注目)
『リトル・ジニー』はその「精神の勝利」の一つの形態を描いているのだ。

…同時に。

『リトル・ジニー』を読んで私が連想したのはP.K.ディック『火星のタイムスリップ』(ハヤカワ文庫)である。
この作品では自閉症の少年の精神が世界を侵していくのだが、後の多くの作家に対し大きな影響を及ぼしている。
日本人作家では、例えば神林長平氏の作品には常にその影響が漂い(特に『完璧な涙』『戦闘妖精雪風 アンブロークンアロー』等に私は強く感じるのだが)川又千秋『幻詩狩り』にはオマージュとも言える描写が多い。山田正紀氏は『神狩り2 リッパー』で具体的に書名を挙げ言及している。例を挙げていけばキリが無い。

そうした文脈で読めば非常に「わかりやすい」作品とも思える『リトル・ジニー』を『マインド・イーター』の内部に配置したのは著者の確信犯的手法だと思われる。前回の文章で『おまえのしるし』について書くのに用いた自分の言葉を再び使うならば「印象の檻」に読者を閉じ込めることに成功しているのだ。

そして、それが意図したものかどうかは分からないが、『憎悪の谷』『リトル・ジニー』と並べることで『夢魔のふる夜』と対にもなっているのだ。
(『マインド・イーター』が連作短編であり物語に物語を上乗せしていくような構造である以上、発表順は極めて重要である)

一貫した回答を提示しない『マインド・イーター』において、他の作品群と連関し水見稜という作家が常にテーマとしてきた「精神と肉体」が音量バランスを変え変奏され、一貫している。

では結論は何か?決まってる。

『マインド・イーター』は傑作だが、その真価を理解するために…

水見稜夢魔のふる夜』の復刻を希望する!

(余談ではあるがミハイル・バリシニコフ主演の『ホワイトナイツ』というダンス映画の傑作がある。グレゴリー・ハインズがジャズダンサーとして登場し、奇しくも『サック・フル・オブ・ドリームス』のダンス版ともいえる、しかも場所と立場が反転している映画になっている。85年という時代のため、アメリカの反共感情を露骨に反映はしているが、ダンスシーンが素晴らしく、お薦めである)

blacksheep 2ndアルバム発売!

blacksheep / 2 (doubtmusic / dmf-140

blacksheep / 2 (doubtmusic / dmf-140)
2011年3月13日(日)発売

発売元
doubtmusic
(カタログ情報"blacksheep / 2 (doubt music)")

ジャケットマンガ
西島大介
デザイン
佐々木暁

税抜定価:¥2,200
税込定価:¥2,310
配給:meta company

【MEMBERS】
吉田隆一(Bs)スガダイロー(P)後藤 篤(Tb)

収録曲
1. 時の声 ( the voices of time / 6:56 ) J.G.Ballardに捧ぐ
2. 重力の記憶 ( a memory of gravity / 7:09 )
3. 滅びの風 ( perishing wind / 6:59 ) 栗本薫に捧ぐ
4. 星の街 ( Звёздный Городо́к / 7:14 )
5. 星の灯りは彼女の耳を照らす ( the starlight illuminates her ears / 8:55 )
6. にびいろの都市 ( grayscale city / 6:59 )
7. 切り取られた空と回転する断片 (sky clippings and spinning fragments -revisited / 11:59 )

作曲:1〜5、7=吉田隆一、6=後藤篤

doubtmusic直販部

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にて予約受付中

発売記念ライブ

...
2011年3月8日(火)

新宿PIT INN
新宿区新宿 2-12-4 アコード新宿 B1
03-3354-2024
open 19:30 / start 20:00
料金:3,000円(1DRINK付)

guest DJ:DJまほうつかい(a.k.a西島大介

※ CD及び blacksheep萌えTシャツ、先行販売!

...
4月26日(火)

関内エアジン
横浜市中区住吉町 5-60
045-641-9191
open 19:00 / start 19:45
料金:2,500円(1DRINK付)

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5月28日(土)

荻窪ベルベットサン
杉並区荻窪 3-47-21 サンライズ ビル 1F
open 19:30 / start 20:00
料金:予約2,000円 +1ドリンク(500円)/ 当日2,500円 +1ドリンク(500円)

水見稜『マインド・イーター』について

唐突に思い出し、水見稜『マインド・イーター』について書いた自分の文章を別の場所からコチラに転載
2006年04月12日
***

以前からこの水見稜『マインド・イーター』(ハヤカワ文庫)の解説にある

「文科系のハードSF」(大野万紀

というワードが気になっている。

文句があるのでは無く、なるほど、と思っているのだ。
非常に的確であると思う。

解説でも言及される、この『マインド・イーター』という連作短編郡における整合性の無さ、矛盾に関しても、「文科系」というマジックワードによって理解が容易になるように思っている。
変な言い方だが「整合性の無さの一貫性」を感じ、それもまた非常に文科系の学問的であるからだ。

この整合性の無さは連作短編第一話『野生の夢』で既に予告されている。すなわち
....................

およそ宇宙を構成するものの九〇パーセントは仮説であるが、それらは宇宙がいいかげん気の抜けた状態になってから、詮索好きな人間と言う一生物によってうちたてられたために、それ以前の誤解を解消するにはいたらなかった。

....................
水見稜『マインド・イーター』ハヤカワ文庫JA
P9からP10より抜粋)

を全く素直に読んでしまえばいいのだ。

量子論の文科系的解釈。
意図的なニューサイエンス風の曲解。

すべては短編の作中それぞれにおける登場人物=観察者の視点=主観によって発生した違いであり、その齟齬こそが連作短編で無ければ得られなかったテーマの発露であると言える。

私個人が特に気に入っているエピソード『おまえのしるし』を例にとる。

このタイトルから、ある年代、あるいはある種の音楽好きであればWeather Reportの名盤『Heavy Weather』を連想すると思う。

『Heavy Weather』収録の『A Remark You Made』(ジョー・ザビヌル Josef Zawinul 作曲)の邦題は『お前のしるし』なのだから。

ここで、このタイトルからWeather Report『Heavy Weather』を連想するかしないかで作品の見え方が変化する仕組みになっている。

これは作者の「遊び」を理解するしないではなく、一つの「仕掛け」なのである。

なぜならば主要人物である「言葉を発することのできぬニール」は陸上選手なのだ。

彼は走り幅跳びの選手だが、陸上競技におけるキーワードのひとつ・・・
「位置について」= "On your mark!"

これも「おまえのしるし」ではないのだろうか?

ここでダブルミーニングの単語によって読者の主観は様々なキーワードに対して異なる反応を強いられるのだ。

例えばWeather Report『Heavy Weather』を連想し、しかも楽器、音響機材に知識のある人間が意識の中で「音楽」を漂わせたまま文章を読み進むと、後半・・・「精神同調(チューニング)」を行うシーンから受ける印象が違うものになるのだ。

....................

これは、厳密に言うと科学とは別のものだ。科学の可能性を敷?していった結果、道もわからぬところに来てしまったことを、みんなうすうす気がついている。しかし、振り返るのが恐くて、誰も口にしようとはしないのだ。

「カットオフ周波数を設定。共振(レゾナンス)レベルをゆっくりと上げろ」

....................
水見稜『マインド・イーター』ハヤカワ文庫JA
P159 L10からL13より抜粋)

カットオフ周波数・・・レゾナンス・・・

ともにアナログ・シンセサイザーについて少しでも知識があればなじみのある単語・・・というよりそれ以外の連想が出来ないくらいシンセサイザーと密接な関係にある単語郡である。

それによってこのシーンにおける「精神同調」(チューニング!)という作業のイメージが変わってくる。
そして結果、自分のなじみのある世界と疑似科学的世界が意識の中で二重写しとなってしまうはずだ。

連作短編相互の齟齬は作中人物の「観察する主観の齟齬」を描く手法であり、同時に読者は意図的にちりばめられたマジックワードによって「印象の檻」に捕らえられ、主観の齟齬を引き起こすのだ。

そうした点から、この作品が「言語SF」であることを指摘したい。

そして言語SFの中でも、言語が形作る世界の多重性を読者に対しても「仕掛け」てくるこの作品は、言語そのものを具体的に「ハード」として用いた「文科系のハードSF」であるのだ。

....................

死体(コーパス)の上に死体(コーパス)が積もり、言葉(コーパス)の上に言葉(コーパス)が積もる。掘り起こされたときは、意味の違うものになっているかもしれないが、言葉以外にも伝えたいことはあるし、それは時を経てさらに強力になるだろう。

....................
水見稜『マインド・イーター』ハヤカワ文庫JA
P180 L16からL18より抜粋)

高橋源一郎氏と中原中也賞・現代詩をめぐる問題について

当方、ご多分に漏れずTwitterをやってるのですが( http://twitter.com/hi_doi )最近気になるツイート(つぶやき)を眼にしまして。

どうやら高橋源一郎氏と『新潮』に対し、若い詩人達が憤っているという噂なのですが。
若き詩人達がホントに「憤っている」かどうかはさておき、気になったのでちょっと調べて、という程の行為ではなく単に検索してみました。
そうしたところ、こちらの文章がHITしました。
http://www.shinchosha.co.jp/shincho/tachiyomi/20100607_2.html
高橋源一郎氏のコメントから読みとれた概略だけ書くと

中原中也賞(現代詩対象の文学賞)の審査をしていた高橋源一郎氏が、自分が推した詩人が受賞を逃した事を惜しみ、Twitterで事情の前フリと、推した詩(全文)をツイートしたところ反響があり、その詩人の詩(自費出版した処女詩集の大半)が『新潮』に掲載されることになった」

で、もしこの概略が全てで、それに詩人達が憤ってるだけであれば単なる「ねたみ」の類になってしまうのですが、事はもう少し根が深いように思えます。

検証してみました。

1.上記概略から読みとれる問題。

まず前提として。
個人的には「著名な人物による無名な人物の『引き上げ』」自体は問題では無いように思います。

ストラビンスキーによる武満徹氏の評価が、武満氏の、後の日本国内における(無視に近い状況から一転し、手のひらを返したかのような非常に高い)評価、さらには国際的名声につながったという「伝説」を引き合いに出す必要もないでしょう。

・・・ここで、まず問題になるのは高橋氏が「中原中也賞の審査員であった」という点です。

自らが審査員を務める賞の価値を高橋氏自身の手によっておとしめる行為に見えるのですが。

細かく言えば「賞の審査を複数の審査員で行うという行為を否定している」ようにもとれます。

例えば審査員の票が割れ、まとまらず、複数の受賞者が出る場合はイイでしょう。文学賞ではよくある事とも言えます。

しかし今回の場合、高橋氏は中原中也賞受賞作の「受賞」に一度は賛同している(上記URL内にも記述がある)のですから、そのルールには徹底して従うべきではなかったのでしょうか?
こうした行為が認めらるのであれば、文学に限らずあらゆる「賞」「コンクール」の意味は剥奪されたも同然なのではないでしょうか?

もし高橋氏にそこまでの覚悟があって、文学賞そのものとまでは言わなくとも、少なくとも中原中也賞という賞の審査方法・基準に不満があり、それに対する反発・意志表明、という形であればそれはそれで意義があるとは思います。その行為に対する反論・不満を引き受けるワケですから。
しかるに上記のURL、あとで引用するURLでの発言ではそうした覚悟があるようには見えないのです。

もし内面にそうした思いがあるのならば申し訳ないです。とはいえ、その表明は具体的に、わかりやすい形で行われなければならない、とは思いますが。

2.詩に対する高橋氏の言動ついて

今回、問題になった高橋氏のツイートの「まとめ」サイトです
http://togetter.com/li/24423
高橋氏が詩についてどう考えるかは個人の信条なので問いませんが(それにも個人的に考えがあるので後述)気になる発言が一カ所ありまして。

「ぼくは素人だから、好きにいわせてもらうけれど」
(上記URL内takagengen2010-05-27 00:41:40より引用)

中原中也賞の審査をする立場の方の発言としては問題があるように思えます。

「自分は小説家であり詩人ではないので詩の素人である」という意味合いなのでしょうが「素人だから、好きにいわせてもらう」事がしたいのであればなぜ審査員をやっているのでしょうか?

「素人」の目線が必要、ということもあるでしょう。しかし素人でよいのならば、高橋氏である必然性もないのです。

「素人が審査している賞である」と審査員が宣言しているともとれるこの発言でもまた賞の価値をおとしめているように思えます。

3.さらに個人的な

ここから先は完全に私の主観です。

上記のツイートの「まとめ」を読んでいてとても気になったのが実は
「高橋氏が「現代」詩についてどのような考えを持っているか」
という根本的な部分でして。

「現代詩」が現代詩たり得るのは、当然そこに「現代」という同時代性があるからです。

高橋氏は「現代詩」の問題は「多くの詩の内容が詩人自身の内側にのみ指向され外界に対する興味を失っている」と(ツイートで)指摘しています。
「外向きの詩こそが書かれるべき詩」であると。
そして自分が推した詩は数少ない「外向き」の指向を持つ詩であると。

もし現代詩の世界が高橋氏の印象通りだとしたら・・・仮にその大雑把な分類「内向」と「外向」に分けたとして、高橋氏の主観による詩の世界での比率は「内向9:外向1」と言った感じでしょうか?

そうした比率があるとするならば(その大雑把な分類自体、詩人一人一人に対して失礼な気もしますが)その比率にこそ「現代性」現れているともいえないでしょうか?

9割の詩人が「内」に向かう状況自体が「現代」であり、それを否定することは詩の同時代性そのものを否定することにならないでしょうか?

あらゆる文化は時代の振り子に乗っているとも言えます。

仮に今が「内向き」の時代ならば、必ずそのカウンターカルチャーとしての「外向き」の時代がくるでしょう。そしてそんな「現代」であっても「内向き」な詩人は必ずいるはずです。

むしろ「書かれる指向の比率が全作家で五分五分」の文学があったらそのジャンルは末期症状だと言えます。
動かない振り子。変化が起きにくくなれば、情報という名の血流が止まり、死に向かう他ないでしょう。

・・・

高橋氏が「現代」を感じさせる具体的な方法に挙げていた
「その時代の口語の導入」
(高橋氏は「現代詩はその導入に失敗し、そのため現代性を失った」ように書いています)
も確かに一つの方法でしょうが・・・それだけで「現代詩は同時代性を得られる」と高橋氏は本気で考えていらっしゃるのでしょうか?

さらに高橋氏の論に沿って言えば・・・「内向き」の指向がその文学ジャンルを滅ぼさなかった、むしろ活発にした具体例があります。

SFです。

70年代まで外側と「科学」という名の客観を重視していたSFにあらたな血を注ぎ込んだのがP.K.ディック、J.G.バラードらに代表される「ニューウェーブSF」でした。
(さらに言えばそれ以前にF.ブラウンやヴァン・ヴォクトという偉大な「非外界SF]のイノベーターが存在しましたが)

SFというツールを用いて「宇宙」ではなく「精神」という「内面の宇宙」にアプローチした作品群は、当時、一部で「SFと呼びがたい」という非難を受けつつ、後のSFに多大な影響を及ぼし、現代SFに連なる命脈を繋いだのです。

そしてそれらの作品の現代性は・・・例えばヒッピー文化華やかし頃に「ヒッピーの存在が理解できない。外面が人間で中身は違うようだ」と考えたディックが、その「拒絶」を出発点にした『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』等を読めば明らかでしょう。
そこには同時代に対するアンチテーゼそのものが結果としてその作品の(当時の)現代性を表出しているのです。

ある意味それもまた「外に対する興味」と逆説的に言えるかも知れませんが、であればそれは高橋氏が「内向き」と評する詩人の詩にも同じ事が言えるように思うのですが。

そして。ここまで高橋氏の論と印象に基づいて書いてきましたが・・・

4.蛇足

実際には集団競技では無いのですから、具体的な「詩」そのものに関しては比率ではなく個々に評価されるべきです。

私は外向きだろうが内向きだろうが、それが作者にとって切実なモノであればリアルであり、現代性を獲得する、と考えています。
(むろん、その作品が受け手の理解を得られるかどうかは別の話ですが)
今生きている作家が書いたものであれば、我々は同じ時間軸を共有しているはずなのです。

もしもその時間軸が他者と共有されておらず、パラレルなものと考える人であれば、その人は内面へのダイビングを経なければ生きると言うこと自体難しいでしょうし、外界との相関性・相対性を問題にしなければなりません。

そしてそうした流れを経た詩がおそらく、高橋氏が求める「現代詩」なのでしょう。

ただ、もしもそのようなバランス(危ういバランスを含め)感覚に優れた詩人・作品ばかりだと、世界全体の多様性が失われ「つまらない」気がします。
(詩人一人一人の価値とは別の話です)

その多様性が偏ったものであっても。いやむしろ極端なバランスを取る世界にこそ面白みを感じます。私は。

それにたとえ内面へのダイビング
(感覚と感情と記憶との相関。その発見の繰り返し。実際にはそこにも常に外部からの情報流入とその処理が反映されている)
が主目的であっても、その人が生きている以上、必ず外界との相関性・相対性について考えざるを得ないわけですから、どんな詩であってもその行間から「外」が見えるはずなのです。

なにより前提として、人間の構造上、客観的な外部などどこにも存在しないのですから。

5.最後に

この文章は、高橋氏の小説作品を否定する文章ではありません。

また当然、高橋氏が認めた詩を否定する文章ではありません。

問題にしているのは、今回の行為に関してです。

そして、高橋氏がご自分の影響力を知った上で今回の行為に及んだのであれば、それがなにより問題であります。
やはり自分の影響力を知らずに・・・とは思えないのです。

乱文、長文失礼いたしました。

参照
中原中也賞wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E4%B8%AD%E4%B9%9F%E8%B3%9E

H.Selmer Baritone saxophone serie3 試奏感想

super_mariso2009-04-17

さて、仏のサックスメーカーH.Selmer(ヘンリ・セルマー社)が満を持して発表したバリトンサックス・シリーズ3(セリエ3)・・・

吹いてきました。

以下ファーストインプレッション。

持った感想・・・軽い!マーク6と同程度。いやそれよりも軽いか?直接比べてないので分からないのですが。

吹き心地・・・おおお、良いじゃないですか!

楽器の軽さから「反応は早いが、音質も軽い」と予想していたのですが、半分は外れ。意外と低音に量感があります。
しかしやはり反応はムチャクチャ早い!最低音(LowA)の、ピアニッシモの立ち上がりは特筆すべきでしょう。

上から下まで全音域で量感が変わらないですね。

シリーズ2(セリエ2)の「末広がり」的な低音のどっしりした膨らみ(実際それが好きで愛用してます)は無いですが、クラシック等では絶対的に有利だと思いますし、なにより高音域も音が痩せないのです。太い!

では低音域が寂しいかと言えば上記したとおり十分な量感をもっていますし、音の立ち上がりが早いのを利用して、バキッとインパクトのある低音を出す事も可能です。

サブトーンも出しやすいです。

柔らかい音の響きも、ソリッドな音の響きも・・・と言った感じで万能。
コントロールが容易でイイカンジです。

ある意味「優等生のマーク6」とでも言いましょうか。

構造・・・徹底した軽量化と改良が加えられています。

特筆すべきはLowA周りの構造の改良です。
キイの押さえ込む方向が従来のセリエ2とは逆になり、スムースに押さえ込めます。
朝顔の、他の低音キイとの連動がユニークで、従来は左手テーブルキイの構造にアクセスする連動だったのが、セリエ3では直接、朝顔にある、他の低音トーンホール上のカップを押さえ込む構造。これは画期的です。

今まで(シリーズ2まで)はLowAキイ単体で押さえると、連絡構造の歪みが生じたのですが(なので同時に、左手テーブルキイLowB♭を補助的に押さえる必要がありました)この構造ですと、LowAキイ単体で押さえてもねじれが発生しないのです。
調整さえしっかりしておけば、LowAキイ単体での使用が容易になったのです。運指上のメリットは「大」です。

加えて、写真で見ていて注目していた、朝顔と本体の支柱構造。

マーク6まで、あるいは現行のヤナギサワ・ヤマハ等は立体的な三点支持でしたが、シリーズ2のバリトンは平面上の三点支持(アルト・テナーと同じ)ため、低音(特に最低音)の強奏で音がぶれやすいという弱点があるのです。
(そのため楽器自体も歪みやすい)

で、今回の構造、一見さらにヤワになったように見せて・・・アール形状と、アール縦方向の厚みによって横ぶれに対しての支持が強化されているのです。

軽量化と支持の強化を同時にクリヤーしています。

これが低音の安定感と立ち上がりの早さに貢献しているのは明らかでしょう。加えて必要以上に振動は殺さないため低音の量感もある訳です。

その他、リベットが見えないメタルレゾネーター(初期マーク6的。これの効果の程は不明ですが、立ち上がりに貢献しているかも)
管体上部の石突き状補強の撤去やU字管ガードの軽量化(これがバリトンでは細くなりがちな高音の響きの改善に貢献していると思われます)

キイがコンパクトにまとまっており、手の小さな方でも演奏可能でしょう。

気になるところ・・・ペグ(オプション。「足」です)の支柱下側に補強が無い点が少し気になります。ペグに全重量を預けない方が安全かもしれません。

結論・・・

イイです。

クラシックでは絶対的に有利でしょう。
吹奏楽にももちろん良いでしょう。

また、例えばビッグバンドでも・・・近年はプロアマ問わず女性プレイヤーが増えてきておりますが、体格のハンデを気にすることなく演奏可能(軽い・低音が楽・キイがコンパクト)な高級機種としてオススメです。

実際、最低音の立ち上がりの早さは・・・例えば学生ビッグバンドで良く取り上げられる、サミー・ネスティコアレンジのベイシー・チューンにたまに登場する「最低音一発!」をバシッとオンタイムで決める!・・・といった用途でも有利でしょう。

ではパワープレイヤーにとってツマラナイかと言えばそうでもなく・・・意外に量感がある上に、上の方まで音が太いので、例えばコンボ系ソリストにもオススメできます。

息の長いフレーズを吹いてる時の感覚はLowB♭の楽器を吹いている感覚に近いです。

もちろん、低音に量感があると言ってもConn系の「ドスの効いたズブトイ低音」では無いので、ジャズ系のプレイヤーであれば好みが分かれるでしょう。
ロック系でも好みは分かれるでしょう。ホーンセクションでも音は十分生きると思いますが。

上記のように軽量化により、下部石突きも小さめで、上部補強も無いため・・・「備品」にするには少しばかり「繊細」な楽器です。
なのでやはり、楽器の扱いに長けたプロ及びハイアマチュア向けの楽器であると言えます(それをふまえての価格設定だと思われます)

吹き込んで、どのようになっていくのかも未知数ですが・・・

「演奏する上でストレスがない」というのは・・・バリトンサックスにとって「名器」の十分条件だと思います。
オススメです。

SXQ CD発売記念・インストアライブ@diskunion 新宿JAZZ館

sincerely music CD
SXQ saxquintet on Tour 2008 RUSSIA-LITHUANIA(SINM-003)
http://sincerelymusic.blog115.fc2.com/blog-entry-3.html
発売を記念してのインストアライブを行います。
CD先行発売あります。

2009年2月24日(火)

会場・ディスクユニオン・新宿ジャズ館

21:00〜(店舗営業終了後)
入場無料

diskunion 新宿JAZZ館 1F
東京都新宿区新宿3-31-2
丸江藤屋ビル
03-5379-3551

(店舗情報・地図)
ディスクユニオン・新宿ジャズ館
http://diskunion.net/shop/ct/shinjuku_jazz
ブログ
http://blog-shinjuku-jazz.diskunion.net/

SXQ...
松本健一 soprano saxophone & shakuhachi
http://www.geocities.jp/takuhatsu/
立花秀輝 alto saxophone
http://www.h4.dion.ne.jp/~bana/
藤原大輔 tenor saxophone
http://www.fujiwaradaisuke.com/
吉田隆一 baritone saxophone
http://members.jcom.home.ne.jp/sincerely1/

SXQ saxquintet on Tour 2008 RUSSIA-LITHUANIA

SXQ saxquintet
SXQ saxquintet on Tour 2008 RUSSIA-LITHUANIA
(2009年3月3日発売)
sincerely music SINM-003
ディストリビュート by BRIDGE
税込定価;¥2,100
(税抜¥2,000)

SXQ は、日本でこの数年間に出現したジャズ・グループとしては、屈
指の存在である。日本ジャズ界の中堅を担う、今もっとも脂が乗り切
っているミュージシャンたちだ。  副島輝人(ジャズ評論家)

まるで8mm カメラによるロード・ムーヴィーのように、SXQ、北へ!
アプローズから罵声、路上の詩人の歌声からロシアに響く尺八の音ま
でショットされた旅のアルバム。その生々しさにトサカが5 センチ伸び
ました。  大谷能生(文筆家・音楽家

サックスサックスサックスサックス……どこを切ってもサックスばかり。
サックスの音の洪水を頭から浴びたければ本作を聴くことだ。馬鹿よ、
まさにサックス馬鹿たちよ!   田中啓文(作家)

・・・

サックス奏者松本健一が2001年、スタイルや曲やメロディーよりもサックスの持つさまざまな音の可能性そのものに着目して結成したサックスアンサンブル。若手〜中堅のジャズ演奏家の中でも特に個性的でオリジナリティに富む奏者が集う。
2007年に初のCD作品である「頭ン中 in your head」をリリース。同年3月「TPAM東京芸術見本市2007」での「インターナショナル・ショーケース:2007年、ジャズの新しい展開」に出演し、各国関係者より大きな反響を得る。2008年10月に、国際交流基金の助成を受けロシア〜リトアニアで2つのジャズフェスティバルを含む7カ所のツアーを行い各地で高い評価を受けた。
今回のアルバムは、現地でのライブレコーディングから厳選したトラック及びフィールドレコーディングSEで構成された「音によるドキュメンタリー」と呼ぶべき驚異的な作品に仕上がっている。

松本健一 soprano saxophone & shakuhachi
立花秀輝 alto saxophone
藤原大輔 tenor saxophone
吉田隆一 baritone saxophone
木村昌哉 soprano saxophone & tenor saxophone

01 モスクワ駅 (SE)
02 スペクトラムタイムゾーン
03 ミッション・インプロジブル
04 夜汽車 (SE)
05 水、サイコロ〜百年前ここは水田だった
06 ゴールデンエンジェル
07 ゴールデンエンジェル II (SE)
08 アナウンス (SE)
09 一月
10 ヴォルガの杭打ち (SE)
11 詩人 (SE)
12 五月
13 サイレン (SE)
14 シェレメチェボ 2 (SE)
15 頭ン中

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