尊厳小説

(今日の日記は、ほとんど「読書日記」です…)

島田荘司の『本格ミステリー宣言』は読んでいないのですが、『奇想、天を動かす』が自らの『本格ミステリー宣言』を受けての「新本格」あるいは本格と社会派の融合という捉え方をされているのが一般的なのでしょうか。

個人的には、島田荘司の考えた「本格と社会派の融合」とは、社会派ミステリが描き出した、言い方を変えれば、ミステリにおいては社会派という形式が生み出した「尊厳小説」とでも言うモノを書く事だったのでは、と思ってます。

文庫版『奇想、天を動かす』の解説は立ち読みしただけなのですが、当時島田荘司が「世の中が本格だけになってしまうのは問題である」といった発言をプライベートでしていることが書かれていたはずです(誤解であれば申し訳ありません)
そして、そうした事を考えていた島田荘司にとっての「新本格」とは、社会派に分類されるミステリの持つ「弱者の尊厳を描く力」をミステリというジャンルが失いかねない事に対する危惧から生まれたモノではないでしょうか?

個人的には、社会派に分類される作家の中では森村誠一(ミステリではない『致死同盟』も、あるいは『悪魔の飽食』も、弱者の尊厳が一貫して描かれています)そして近年では山田正紀がそうした「尊厳小説」としか言い様のないモノを描いているように思えます。

山田正紀の『ミステリオペラ』の過剰なまでの書き込みは社会派と本格におけるそれぞれの両極端を、「弱者の尊厳」という軸で繋いで描いた作品であるとも言えます。
(そういえば「見立て殺人が行われることで、人間の”死”は一切の尊厳を剥ぎ取られる」といったセリフが『ミステリオペラ』にはありましたね)

そしてさらに考えてみれば、「SF」というジャンルは、そうした「尊厳小説」を描く上で、最も適した土壌ではないでしょうか。

極限状況を書くと言う意味において「SF」は最強なのですから。

山田正紀のSFはそうした意味で、全てが「尊厳小説」であるとも言えます(評価がいまいち定まらない『日曜には鼠を殺せ』も、「尊厳小説」として読めば、恐ろしく身のつまったエッセンス小説であると言えます)

私が最初に出会った「尊厳小説」は、小学生の頃に読んだ『黒の放射線』というジュブナイルであったはずですが、最初に「これは弱者の尊厳を描いている」と感じたのは、中学生の頃に読んだ菊地秀行『エイリアン…』シリーズでした。栗本薫の『魔界水滸伝』もそうでしょう。(これらは弱者=人類の尊厳とでもいうべき作品郡ですが)
水見稜の『マインドイーター』や『夢魔のふる夜』もそうです(この二作品、とても好きです)『マインドイーター』はまさに「尊厳小説」としか言い様がありません。たゆたうような、不思議なイメージの向こう側に、それは見えて来ます。『マインドイーター』復刊希望。名作です。

そして、私が谷甲州の作品を好きなのは、まっこうから「尊厳」を描いているように思えるからなのです。
『星空のフロンティア』『エリヌス-戒厳令』『星の墓標』『最後の戦闘航海』はもとより、初期の『惑星CB-8越冬隊』、さらにデビュー作『137機動旅団』から一貫しています。

そしてその向こう側に『終わりなき索敵』の登場人物達、「強者であり弱者」のロックウェルや「弱者の超人」ダムダリがいるのでしょう。

弱者の尊厳…
「尊厳小説」は、今の日本人にこそ読んで欲しいモノだと思います。
『奇想、天を動かす』未読の方は、是非。