呼吸、新マウスピース、AKIRA

さて、サックス奏者である私としては、呼吸の方法というのは非常に重要で、サックスを吹きはじめた20年前からずうっと考え続けていた課題なのです。
小学生の頃から合唱を始め、呼吸法というものに関心を持ち、自分なりに研究を始めて、高校生の頃に、雲井雅人氏という素晴らしいクラシック・サクソフォン奏者に教わった呼吸法で目が白黒ウロコポロポロ、で、最近にいたっていたわけですが、それ以後も、日本古武術の呼吸、中国仙術の胆田呼吸、ヨガ呼吸など(どれも、ものすごく浅い、聞きかじりレベルですが)も視野に含めてちまちま研究してきたのです
で、最近、その呼吸師範雲井氏のサクソフォン4重奏団のページ(http://www.kumoiq.com/)を見てみたら、雲井氏の、呼吸に関するエッセイが載っているではありませんか。
これがなかなかに、ヒントになる。
メモの延長的文章で、教則として読むには少し分かり辛い文章かもしれませんが、凄く参考になったのです。
結果から言えば、昨年の禁煙と相まって、呼吸が楽になりました。
「ヒントになる」というのは、考え続けていたことに関して、たまたま(パズルの小片のように)あてはまるということである以上、この部分がヒントになったといっても、それをヒントととらえた人間以外にはヒントとは思えないはずです、が、一応書いておくと(自分に対する「メモ」でもある)
「オペラ歌手の呼吸」
これですよ。これでなにかいろいろと楽になりました。
以前から考えていた断片が統合されたというか「そうか、やっぱり楽で良いんだ」というか。

そして早速レッスンにもその呼吸を取り入れてみたところ、成果があるんですよ。これが。

そんな時、いいタイミングで、去年、オーダーしていたマウスピース(唄口)が出来上がり、届いたのです。
ARBアメリカのメーカーです。
このメーカー(ビーチラー社)のルーツはブリルハートというメーカーです。
もともとサックス奏者で、マウスピース職人&設計者として非凡な才能を誇ったブリルハートさんのメーカーで、現在ブランドネームはセルマー社に吸収されていますが、設計思想&ノウハウそのものはビーチラー社が諸事情により受け継いでいる様です。
そのなかでARBメタルマウスピースは、ブリルハートのメタルマウスピースの現代的復刻モデルなのです。
ブリルハートメタルは、デビッド・サンボーンが70年代に使用していた事で有名です。
内部の形状が独特で、なんというか…変です。
ただ個人的にはそうした設計に至る思想はなんとなく分かる気がするのです(以下マニアックなので興味の無い方は飛ばして下さい)
ブリルハートのマウスピースは初期〜エボリン&トナリンに至迄、一貫してバックボアが存在します。
バッフルの後に「壁」があるのです。
バックボアの存在がどういった効果をもたらすかは、実は諸説ふんぷんでアレなのですが、個人的には「吹き込んだ後、折り返しフィードバックして来た振動波の時間差を統合する」役目を果たしているのではないか?と推測しています。
で、ブリルハートメタル&ARBメタルの極端な形状、一見、デュコフを極端にしたようなバッフルの上がり方。これを「バッフルが上がっている」ととらえるのではなく「バックボアを形成する『壁』が、バッフル側にすべて集まっている為、バッフルが上がって見える」というように解釈すると、この形状は、要はその昔「メタル素材の加工の都合はあるがバックボアは絶対欲しい」と考えたブリルハート氏のアイデアなのではないか、だとしたら変な形状なのではなく、むしろ古典的(とはいえ1930年代以降の発想)なバックボア思想なのではないか?と考えられるのです。
(マニアック失礼)

で、この新マウスピース、試してみたら、考えがそれ程間違っていなかった事が判明しましたです。
というか、とても気に入りました。強烈に、毒です。

来月のmissinglink(2月5日木曜)で早速実戦投入します。

…最近、某BOOK**Fで「AKIRA」全6巻を一気に購入。
久しぶりに一気に全部読みました。
面白かったです。

書きたい事山程あるなあ。
その数日前、坂口尚の単行本(奇想天外社!)を買ったばかりで、そのあたりとの関連や…

そうそう、『童夢』以前は「(コマが)白いマンガ家」と認識されていた大友が、いつのまにか「細かい描き込み→(コマが)黒い」の代名詞扱いになっている不思議さ(人間の、他者に対する評価、認知、認識なんていい加減なもんだ)とか、『ユリイカ』のバックナンバーを本厚木の書店で立ち読みしたときに「そういえば、初めて大友のマンガを読んでショックを受けたのが中学2年の時、やはり本厚木だった」と思い出したり、その大友特集の『ユリイカ』は原宿の書店で、高校時代に読んだ記憶があり、その時、なぜか季刊『幻想文学』を買ったんだよな?等々、とにかくいろいろ思い出したりもしたんですが。

一番書きたいのは
「フィクションと現実を等価に扱う」という事についてなのです。
そして、それとも関連して(似ていますが意味合いが違うのです)ひょっとしたらいわゆる古典的「ヲタク」思想における「フィクションと現実の混同」と、昨今の様々なヴァーチャリズム→マスコミ報道における「フィクションと現実の混同」の意味は正反対なのではないか?
ということなのです。

例えば、フィクション内部での『死』を、現実の『死』と同等に受け止めるのか、現実の『死』をフィクション内部の『死』と同等にとらえるのか、ということです。

前者は古典的「ヲタク」思想であり、後者が一般的な(マスコミが流布する)「ヲタク」認識ではないでしょうか。
あるいは、子供の頃、フィクションの登場人物が作品内部世界で『死』を迎えた時、子供心に、現実の友だちを失うのと同じくらい悲しかったのと、現実の『死』に対して現実感を持てないことの差異というか。
詳しくは後日日記にて書く予定です。

あ、あと
「手塚マンガ、藤子Fマンガ、宮崎アニメ、星ショートショートの毒」についてと「大友の考えるアニメと宮崎の考えるアニメの思想の違いは『10メートルを3歩で歩く』行為を肯定するか否定するかの差である」
とかも、です。