思い出した

なんかここ数日「コレは書いておかねば」と思うネタがあって、でも書く段になるとすっかり忘れており「なんだっけ…」と。
思い出した。
新聞はとって無い、ニュースも政治経済関連とスポーツ情報ばかり見てるばかりで、したがって事件が起きた場所がどこだったかも未だに知らない。ワイドショー?最近見ないなあ…でも一番ネタにしてたのはワイドショーだと聞いた。ホントかどうかは知らない。
でもみんな知ってるんだよな。多分。
葬儀屋さんが「葬式を挙げたい」という理由で自分の叔母を殺害したって話。
ホントにそれだけの理由なのかどうかは、上記の理由により知らない。他にも情報があるならネットで調べれば分かるだろうけど。
俺が考えたのは、多分ミステリ好きなら10人中6人以上は考えるであろうことだ。
「…本格でこんな『ホワィダニット(犯罪の動機が謎であり、それを解きあかす構造のミステリ)』物を誰も書こうとしないだろうな。説得力ないモン」
いわずもがな、な話だけども。
実はね…
福井晴敏『川の深さは』(俺もしつこいネ)の『解説』の一文。
ある人物に対して「熱血ぶりがマンガのよう」であったり、ある人物に「完璧すぎてリアルな人物造型とは言い難い」ゆえに失格と書かれていた部分について「う〜ん」と思っちゃったのヨ。
その前段の、解説執筆者が考える小説の評価基準…「プロットや文体、描写力を支えるテクニック」「どれだけの陰影をもって人間が描かれているか」(福井晴敏『川の深さは』講談社文庫P394L11〜L12より抜粋)も音楽に置き換えるとちょっと切ないとは思ったけど、何かに点数をつけるための「基準」と考えれば分からないでも無いのですヨ。
(余談だが、上記の基準は「本格推理」と「前衛作品」は除くと書かれている。多分同じく免除対象に当るだろう「SF」は無視されてルなー)
解説執筆者が「それでもそうした人物の行動に感動した」と書く為の前フリなのだが、んだけどもこの解説文の書き方では「マンガ」を小説の下に置いているように読めるし、エンターテイメント小説で登場人物がマンガのような熱血漢やリアリティの無い超人で何が悪いと思ったのだ。
でも自分でも「揚げ足取りっぽくてやだなア」と思い、記憶の底に封印していたのヨ。
でもその数日後、夜中にケーブルテレビのチャンネルをポチポチ(ガチャガチャとはもういわないんだよナ)回していて、突然「オランダの風車風デザインのガンダム」という恐ろしい映像が目に入り、頭が空白になった隙をついて一見中国拳法使い風中年男性が「がはははは!我が名は東方不敗!」と名乗り、ガンダムで中国拳法(のようなもの)をくり出すのを見て、少しだけ「マンガのよう…」と言いたくなる気分が分かったヨ!
(もっとも福井晴敏ターンAガンダムのノベライズをしているのだが…)

で、そんなことを考えていた矢先にこの事件だ。
どうだ!この説得力のなさ!人物像の浅さ!
そしてまたまた使い古された慣用句がイヤーになるほど使われるのだ。
「事実は小説より奇なり」
ううー
なんかクヤシイ。
奇想よ!天を動かせ!
虚構と現実が等価であるには、あらゆる虚構の価値を認め、あらゆる現実の存在を認めなければ、と思うので、俺が音楽でやるべき事も自ずと決まってくるのネ。
で、それは言葉で説明出来ないから音楽でやるのヨ。
やる気マンマン。
というとりとめのない話になっちゃった。
許してね。