「耳をすませば」続きの話

というわけで、昨日の日記で『耳をすませば』を観た、と書いたけど、気になって少し検索かけたら…面白いなあ。
柊あおいさんの原作のファン内部ではすこぶる悪い評判もあるそうな。アニメ版『耳をすませば』。
理由は当然のように「原作のイメージが損なわれている」という、原作付き作品の宿命的なモノで、おまけにこの『耳をすませば』は柊あおいファンにとって、深い愛情を持ってしまう、不思議と魅力的な作品であり、まあそりゃアニメ版がそうしたファンに評判悪いのはしかたないよナ…という感じなのだけど、面白かったのは原作ファンの方のHP中に「何故アニメ版を自分は認める事が出来ないのか」を分析している文章があって、それが「おお、そうだよね」とうなずける内容だったのですヨ。

要するに、原作の「少女漫画」の部分が、アニメ版には決定的に欠けているからなのだと。

これ、俺が以前日記に書いた「SF・ミステリ・ジャズ・ロックの魂」と同じことだよネ。
その人曰く、「少女漫画」というのは絵でもストーリーでもなく、作品から漂う雰囲気なのだと。
いやはや、これ、物凄く良く分かる。
条件は上記の「SF・ミステリ・ジャズ・ロック」と変わらないのだ。その「魂」を持っているか。もう少し分かりやすく書くと、ジャンルを貫く世界観、価値観を持っているか、ということ。

少女漫画とはそうしたモノなのかと言う事に関して川又千秋栗本薫が随分前に論争していた気がするが…
(少女漫画と言うジャンル内の優れた作品があったとする。その作品が、少女漫画というジャンル内部で成立しているから素晴らしいのか、少女漫画というジャンルの内部にたまたま存在するだけで少女漫画という価値観に支えられなくとも良し悪しを評価できる別モノなのか…といった感じの論争では無かったっヶ?)

なるほど。でもこの視点で見れば、原作に「少女漫画」を観て、愛している人には許し難い作品だろうなあ。とも思う。
宮崎駿はこの作品が「少女漫画」であると明言しているのだが、それで実際のアニメ作品からは、しかしなるほど、原作を読んでいない俺が観ても確かに「少女漫画」の世界観、価値観、「魂」は一切存在しない様に思える。

しかし、前述のジャンル論でも書いたが、やはり互いの価値観の違いを認める事から始めないと先には進めないのだ。

俺が残念だったのは、どのHPの文章を読んでも、原作系ファンページでは「宮崎アニメ」と書かれていた点だ。
確かに脚本は宮崎駿だが、監督は故・近藤喜文なのです。

宮崎駿が考える「少女漫画」のポイントは、おそらく「毒性の少なさ」にあったのだと思う。
宮崎作品における凶悪なまでの「毒」がこの作品には感じられない、と思うからだ。ホントは星新一手塚治虫、藤子F不二夫と同様に、強烈な「かくし猛毒系作家」のはずなのだが。
そしてこのアニメ版「耳をすませば」を支配しているのは近藤喜文の世界観なのだと思う。

日常を愛している。自分が生きている世界と時間、なにより人間を愛しているのがひしひしと伝わる。

春の、夏の、秋の、冬の日ざし。風の匂い。街の空気。
それが描きたかったのだろう。
極端な話、ストーリーよりも「空気」と「人間」が描きたかったのだと思う。
原作のストーリーをカットアップし再構成したのは宮崎駿であり、そこで話は完結していた。原作のファンが納得行かないであろう部分もそこなのだが、それでもその結果が「少女漫画」であれば、まだ不満ながらもそれなりに認めていたかも知れない。

しかしその先にあったのは近藤喜文の世界観であり、それは少女漫画ではなかった。ただそれだけの事なのだろう。

そして俺は、一途に原作を愛する人々の気持ちにも共感しつつ、でも、やっぱりアニメ版が好きなことは変わらないのです。
でも原作も読まないとネ。でないと不公平だヨ。というか読みたいヨー早く読みたい。

長文失礼でした。