忘美録

あ、間違えた。これだから「ことえり」は…
ウソ嘘悪いのは俺です。
というわけで、さっき思い出した。
一昨日、新宿で「うまい棒」バスを見た。
びっくりした。
すごいよなあ。うまい棒
本家「うまか棒」が滅んでも「うまい棒」は生き残る。
あとは「ガリガリ君」のバスが見たいなあ。

えっとあと書こうと思ったのは橋本治の短編「角ざとう」を読んでいろいろ思ったことを。
それは読書日記で良いか。でも書かないと新鮮な気持ちを忘れちゃいそうだから。
というわけで人目にさらす日記で公開メモ。

柳田邦男氏が今回の最年少芥川賞受賞者作品について文芸春秋で書いていた感想が郡を抜いて(俺の主観です。異論はあるでしょう)面白かったんだけど、その中で「あ、そうだよね」と思ったのが読書における「対象化と内面化」の問題なのです。
柳田邦男氏は(うろ覚えだけど)「(今回の受賞作品を)作者と同年代の読者は『内面化』して読むのであろう」と書いていたのでした。
俺の解釈ですが、例えば評論や評価のためであったり参考文献としてであったりする読書は「対象化」した読み方であり、内容そのものに共感し、自分の主観を意識しないで(言い換えれば主観を排斥しない)する読書は「内面化」した読み方でしょう。
これは物凄く大雑把というか極端なわけ方で、実際には普段の読書で「幾許か対象化しつつ内面化する読書」またはその逆も多いわけで、そのパーセンテージの割合が個人によって違うのです。
ノンフィクションやドキュメントを読む場合「対象化」のパーセンテージが増えるでしょうし、そうした本を多く読む人は、何を読むにしても「対象化」の割合が高いと思います。
純文学好きは…半々かな?極端に内面化して読む人と、バランス良く対象化と内面化を分けて読む人とで。
俺個人は、どちらかと言えば最近まで「対象化」のパーセンテージが高めでした。
SF、特にハードSFを読む感覚はノンフィクションを読む感覚に近い気がします。
吉村昭の作品は、そうしたバランスを上手く保たないと面白く読め無いですし。
そしてミステリも新田次郎の登山小説も、例えば情景描写の巧さを楽しめないと読めないですよね。そうした技術を楽しむ読み方は対象化した読み方のはずです。
だから「情景描写を読むのがつまらない」という人に逢うと「なるほど。この人は読書において内面化の割合が高い人なのだな。対象化する読書にはあんまり関心が無いのだろう」と考えて来ました。
しかし最近、橋本治の短編『角ざとう』(夢枕貘監修『闘人列伝』収録)を、非常に久しぶり(中学生以来?)に、完全なまでに「内面化」して読書しました。
「主人公の心情、コレ、俺の子供の頃の心情だあ」と。
一度読んでから、もう一度読むと「上手いなあ」と対象化して読む心情になっちゃったのですが、100%の内面化って、楽しいなあ。
自分の場合、例えば音楽について、もはや「完全な内面化」した楽しみ方を望むべくもないのだから、こうした楽しみがないとネ。つまんないよネ。


…という内容のメモでした。
前に書いた島田荘司「奇想、天を動かす」の話と一緒に、そろそろ加筆訂正して読書日記にupしないとな。