とりとめなく

世の中、もう飽きたのでしょうかネ。人質事件。
だとしたらホントに酷い話にゃあ。
ボコボコに叩くだけ叩いて、放置プレーかヨ。
情報評価、吟味をせずに、限定された情報で判断して、責める。
飽きたらやめる。というか報道に割かれる時間が減れば事件は収束なのでしょうか。
毎度のパターンですが、今回は特に酷い気がするヨ。
報道ってさ、特にテレビって…

まず考えなくちゃいけないんですが、そうだにゃ。まず前提として…テレビで流す様々な映像、インタビューで語る内容、質問に対する返答すら、報道する側によってコントロール可能であるわけでして。
マスコミな人たち、言って欲しい言葉を取材対象から引き出す為には物凄く粘り強いですから。
(今回の人質家族のインタビュー、リアルタイム・ノーカットフルタイムのものって、ありましたッケ?さすがにそこまで暇ではないので全部チェックはしてないのですが、私が観た物は全て編集済み映像でした。そして大概の人がそうじゃないかな。みんなそんなに暇ではないでしょう)
というわけで、先入観を持ってないつもりの人、素直な人は危険かもしれません。ひねくれてれば良いわけじゃないけど。

さて、というわけで「片寄りやコントロールの可能性の無い純度の高い情報を観て今回の事件について考えた人」はまずいないわけです。
私もそう。
ただ単に「深読み」しようとしてるだけかもしれません。

ただ「無知の知」という言葉がありますヨね。自分の感情すらもひょっとしたら誘導されている可能性も考えておくのも無駄では無いでしょう。

とにかくもし誰かを「責める」気になった人は、対象が誰であれ何であれ、国家であれ個人であれ、右であれ左であれ、自分の考えや気持ちにそれこそ責任を持つべきだと思います。

自己責任と言う言葉を無責任に発する人って、不思議です。でもそれが「大衆」ってものなのでしょうか。

…関係ないことかもしれませんが。
小学生の頃に、自分と同年代の子が自殺した記事を新聞で読みました。
その子が遺書に書き残した「ぼくが死んでそれがニュースになっても、しばらくたてばみんな忘れてしまうでしょう」という言葉を読んで、私は「少なくとも俺だけは憶えておく」と思ったモノでした。
でも既に名前も、遺書に書かれた動機も忘れてしまいました。
憶えているのは、その言葉だけなのですが、それでもかろうじてその事を憶えていられるのは、その子の気持ちがその時、私には伝わった気がしたからです。

他人の痛みや苦しみを自分のモノのように感じ、共有しようとする姿勢が、失われている気がします。
大勢の人が、人の痛みを想像出来なくなったのが不思議です。

それとも日本って昔からそういう人たちの方が多かったのでしょうか。私が知らなかっただけで。そしてそれを指して「大衆」と呼んでいたのでしょうか…大衆とは、昔から想像力のマヒした民衆を意味していたのでしょうか?

でも…すみません。さらに脱線します。
先日観た「太陽にほえろ!」のケーブルテレビ再放送で、我らがゴリさんは犯人の苦しみと同化して悩み苦しみ、私は「ああ、こんなステロタイプな単純な、パターンな話でなぜ…」と思いながら目頭が熱くなったのですが。
あの頃、70年代後半頃、ドラマの脚本を書く時の「感情の動きの了解事項」みたいなのって、今現在と違う気がするんですが。
(だから最近の刑事ドラマにのめりこめないのかなあ?と思ったり)
ということは…なにか変化したモノがあるのでしょうか?たくさんありそうですが。いやそうじゃなくて、ホントに人間の基礎的な部分。感情の流れ方というか、人の苦しみをどう受け止めるか?という点とか…書いててだんだん恥ずかしくなって来たけど、そういうことです。

変わって無いのは…たとえば60年安保から70年安保当時の本や映像、様々な人々の言説から私が受ける印象の中で、なにか居心地の悪さを感じる言説の部分と、今回の「自己責任を追求するべきだ」発言の気持ち悪さ。

実は単に「感情」の問題であり、言語化出来ない部分の問題を、文系的…体系化できない個人的な分析手法で言語化しようとしているトコはまるで一緒な気がします。
言語化する事によって、感情を普遍化し正当化しようとする、しかしその企てがあんまり上手く行って無い感じは…似てます。

(芸術・文化評論ではずうっと前からありがちな話ですが)

このへん、書きたい事たくさんあるんですが、それはまた。
わーんとりとめないヨー