逆説・猿の惑星

イラクの収容所拷問ですが、ずうっと考えて来ました。
事件の実行者たちがアノ結果を起こすに至る思考を、勝手に憶測してました。
自分の心ですら謎なのに、他人の心を理解するというのは傲慢なのですが、それでも想像することくらいは許していただきます。

恐怖、ストレス、思想の方向付けもさることながら、個人の「理解力」の問題も大きいのではと考えてました。
自分が多数派であり、自分の価値観がワールドフェイマスなのだと思い込んでいたら。
そうした異文化理解が出来ない人間、想像力に乏しい人間が異国で少数派になってしまったら。
さらに収容所という状況はその縮図であり問題を単純化しディフォルメしています。
多数の収容者。少数の監視者。
…この構図における監視者の心理は、例えば吉村昭『破獄』を読んでみると想像が可能になります。
第二時世界大戦中。戦時下の刑務所が舞台となる、この作品は、脱走をくり返した脱獄王と、その異常な状況を描いています。
異常な状況とは、配給が行き渡った収監者と、食べる物も満足に得られない警備担当の刑務所職員の、体格や健康状態の差から生じる「立場が逆転してるのではないか?」という不条理な心理状態を指します。
イラクの収容所の場合、直接的には上記の状況とは違います。
しかし上記のように、自分の価値観以外の思想に対する理解力と想像力の乏しい人物が、その環境の中では「少数派」の監視者であり、「多数派」である収容者が、理解出来ない存在=恐怖の存在であったならば。
上記の刑務所職員と似た感覚に捕われるのでは無いでしょうか。
そして刑務所職員と決定的に違うのは、
彼らは遠く故郷から離れ、自分が拘束されているかのごとく恐怖は凄まじいまでに増幅され、しかも自分を囲む「多数派」は皆「敵」(と彼らは思い込んでいた事でしょう)なのです。
理解出来ないということは容易に恐怖に結びつきます。
理解力と想像力の欠如ゆえに、その恐怖はループし増幅され、ある一点を超えた時点で合理化されます。
恐怖や混乱あるいは「それを感じる自分に対する焦り」は「自分が強くて正しい」という思念の対極に置かれてしまい、掘り下げられる事はなくなります。
そして自分を強者たらしめんとする心の動きは、逆転を計ろうとします。

その結果はあんまりに惨たらしい。

むろん憶測ですし、状況を生むに至る思念はそれだけではないでしょう。
思考の過程で、複数の流れがからみ合い、あの心理状態を生んだのだと思います。
様々な心理の仮説。どれも正解でありながら、本質的でありながら、唯一のモノでは無いのでしょう。

私の想像も一端に過ぎないですが、的外れでは無いと思っています。

それこそ他人事ではないのです。
どんな時代、どんな場所でも、同じ事は起こるし、恐ろしい事に状況次第でそれを欲する思考に、誰でもなり得るということなのです。

想像力と理解力は、人間の尊厳を守る力なのだと思います。
そして、それを奪われるような状況も起こり得ます。
そうした状況は、一部の人間にとって非常に都合が良いので、積極的に状況を整えようとする人間もいるのですヨ。
もし尊厳を奪われるならば、戦いを挑まなければならないのです。

本日のタイトルですが…作家ピエール・ブールは、日本の捕虜収容所での体験から『猿の惑星』を書いた、と言われる故事にのっとり。