忘備

最近考えていることの一つに
「ミステリとマジックは対立概念なのではないか?」
というのがあります。

ミステリではまず魅力的な「謎」が提示され、それが「解明」というプロセスを経てカタルシスに昇華されます。
「解明」される前の「謎」が魅力的であればあるほど「解明」のカタルシスの大きさに期待して面白みが膨れ上がります。

対して、マジックには「謎」→「結果」のカタルシスはあっても「謎」は「謎」のままであり、「解明」に向かうプロセスはありません。

ミステリの楽しみ方として「解明」に向かうカタルシスを前提にしている場合、そのプロセスを外されたり(脱コード、没コード問わず)「解明」に説得力がない場合、あらかじめ読者が了解していない場合、物語りが終わった時に不満が残ります。

しかし本来「謎」というものは「解明」というプロセスを経なくとも、それ自体が十分な魅力を持っております。

もともとは
「なぜミステリの『謎』は『解明』されなければならないのか」
「ミステリにおける『謎』の部分を楽しむ感覚とは、単にカタルシスにに対する期待だけなのか」
について考えていたのでした。

…この感覚を例えると、計画した旅行は行くまでが楽しいとか、大きな買い物は買うまでが楽しいとかとも通じる気が…それを考えている時だけしたのですが…
それが「謎」→「解明」というプロセスを前提にしている場合にのみ通用する話で、「謎」そのものの魅力についての答えにならないことに気がついたのは、マジックにおけるカタルシスに考えが至ったからです。

「謎」には魅力と同時に不安感、恐怖感がともないます。
不安、恐怖を感じる「謎」をミステリの内部で提示されると、物語の受け手はその不安、恐怖からの開放…安定、現実への着地を求めストーリーの進行→「解明」という着地を望みます。

しかし本来フィクションであるミステリ内部で「現実」への着地を求めても、結果はあくまで「虚構の現実」であり、その感覚のズレを意図的に利用できる語り手は「メタ現実」への着地に誘導できるはずなのです。

そうした手法の優れたミステリは、存在します。
そしてこの延長線上にはある種のSFが存在します。

また、「謎」の不安を「解明」のプロセスを経ずして「結果」に着地させる、いわばマジックに近い「謎」の取扱いも、SF的であるとも言えます(むろん、これが全てではないですが。個人的にはSFの条件は観念vs観念までも含めた「異種格闘技」であると考えています)

ではSFとミステリは対立概念なのかと言えば、これはまた別の問題になります。

…まだ整理できていないので、まだメモです。