松谷みよ子『アカネちゃんのなみだの海』

子供の頃に大好きだった松谷みよ子『モモちゃん』『アカネちゃん』シリーズの最終巻『アカネちゃんのなみだの海』を読みました。
我が家になみだの海が出来てしまいました。

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『モモちゃんとアカネちゃん』シリーズは児童文学としてはもちろん、『女性文学』として評価されて来た作品に思えます。
『女性文学』として、というのは…このシリーズがモモちゃん、アカネちゃんの視点と同時に女性の視点、母親の視点でも描かれており、それに対して女性の読者が共感し、視点を共有することから私がうけた印象なのですが。

私は男性ですが、その視点に対して共感出来る…と自分では思っています。
(むろん「主観」そのものを共有する事は出来ません。それはあくまで感覚に対する想像と積極的な理解をしようとする思想の範囲でしかありえないのは当然のことでしょう)
それと同時に、女性の視点、主観と同時に、男性という性に対して、なにより父親という役割に対する理解と想像力がなければ書けない、踏み込めない部分にまで筆が及んでいるのに対して、私は以前から驚嘆していました。

一面的な「母」の主観のみでは到底得られない世界観と文章表現が…子供にとっての父親…この感情を大人にまざまざと思い出させる、あるいは「思い出している」と錯覚させる程の説得力を生み出しているのだと思います。

そしてこの『アカネちゃんとなみだの海』に登場する父親は、まさしく子供が特別な感情を抱く『父親』像であり、女性の視点からだけでは解釈し得ない世界観が提示されているようにおもえるのですが。

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ジェンダー」の思想、視点は、まさしく人間の世界を二分しながらも永く圧殺されてきた側の「主観」を提示する大きな役割を果たしています。

(余談ですがSFマガジン2005/2での谷甲州特集における三橋順子さんの『エリコ/トランスジェンダーの視点から』はそうした「主観」の違いを認識する上でも興味深い文章でした)

しかしこの『モモちゃんとアカネちゃん』シリーズが提示する世界観は、「ジェンダー」の視点で捉えてしまうことによりこぼれ落ちてしまうモノが多い気がするのです。

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あとがきを読んで、瀬川拓男氏(民話研究で有名。松谷みよ子さんの元夫でモモちゃんとアカネちゃんのお父さんのモデル)に興味を持ちネット上で調べてみると…情報が少ないのです。

これは、瀬川氏の著作をみるにつけ…おそらく70年代までの日本において、思想闘争を行う人間、思想闘争を意識する人間にとって共通の認識である「民衆、民族、社会的弱者の共同体、反体制の思想」がその視点を支えており、それは現代において、ネット上においてもはや忘れらられつつある思想であるからだと思えるのです。

そうした思想を肯定するしない、重きをおくおかないは別として…ある時代において共有された思想をくぐり抜け、個人の思想、ジェンダーの思想の時代に生きている人たちの世界観と、その次の世代の世界観が異なるのは当たり前の話であり、その著作物に対する受け止め方、理解が変化するのも当然であるのでしょう。

それは多くの人間にとって「良い悪いでは無い」のでしょうが…自分が今生きている時代に直結している以上、様々なバックボーンに対する学習、理解、想像は忘れてはならないのだと思います。

例えば松谷みよ子さんのライフワーク『現代の民話』収集と瀬川拓男氏のライフワークであった民話収集の姿勢の共通項は「共にくぐり抜けた思想、時代のバックボーン」であり、姿勢の違いは「ジェンダー」であり「現代の世相、価値観、時代の思想」であるのだと思います。
それを理解しなければ…「次の世代」以降の読者は(どちらの著作からも)行間から多くのモノを読み落としてしまう気がするのです。

そして…これは読書の為の考え方、姿勢に限らない、と思っています。

今生きている世界を読み解く時に、大事なモノを読み落とさないために必要な姿勢であると思うのですが。