山田正紀『神狩り2』

super_mariso2005-05-16

山田正紀『神狩り2』を読みました。

とても面白かったです。凄かったです。
で、何か書こう・・・と思って半月以上たってしまいました。

まずは、一つの仮説を書きます。

この作品に登場する主要人物のうち三人の男性・・・西村希久男、安永学、江藤貴史。
この三人が何者なのかという事です。

・・・
『神狩り』は一人称、『神狩り2』は三人称で文章が書かれています。

『神狩り』は主人公、島津圭介の視点で語られるのです。

山田正紀は後に『神狩り』をSFだと思っていないという主旨の発言を行ったようなのですが(ハルキ文庫版『神狩り』大森望による解説より)『神狩り2』でのあとがきでは「「カッコいい」SFに回帰したい、という思いで(『神狩り2』を)書きつづけました」(『神狩り2』徳間書店P438より抜粋)と書いています。
『神狩り2」に関しては、その執筆のきっかけからして「SF」である必要があった、という見方も出来ますが(今、検索かけてみたらソースが見あたりませんでしたが・・・徳間書店仕掛人がいらっしゃるのです。SFを盛り上げたいという思いが、山田正紀に『神狩り』の続編を書いて欲しいという欲求につながった旨)
では『神狩り』はSFではなく何であったのでしょう。

おそらく山田正紀にとっての『神狩り』は、例えば大薮春彦にとっての『野獣死すべし』だったのではないでしょうか?
野獣死すべし』の場合、作中で語られる、主人公・伊達邦彦の過去は大薮春彦そのものであり、伊達に仮託した大薮春彦の心象風景が『野獣死すべし』であるとも言えます。
『神狩り』も同様に、一人称で語られた以上尚更に、当時の山田正紀の存在証明であり、心象風景としての私小説の側面を持っていたと思うのです。
そうなれば語り手の島津は『神狩り』執筆当時の山田正紀の自我の投影であります。

では『神狩り2』の登場人物たちはどうなのでしょう。

恩田陸による書評(『週刊文春』)には「全ての登場人物が山田正紀の分身である」とありました。
これにはまったく異論がありません。

複数の登場人物が全て自我の投影である以上、物語は三人称で書かれることになります。

『神狩り』に引き続き島津も登場します。現在の自己を投影させて・・・というよりも「現在の自分を、自分はこう見ている」という視点なのだと思います。

問題となるのは他の登場人物に投影された自我の役割分担であり、特に西村希久男、安永学、江藤貴史、この三人に分裂した自我が何を象徴するか?ということです。

女性の登場人物(最重要登場人物!)を別として、この三人は、三人で一人のようでもあり、そうであればそれぞれが分裂した「主人公」と見る事もできますし(この作品で「主人公」の存在について語る必然は感じませんが)、しかし分裂していなければならない必然性も同時に感じます。

私の勝手な推測ですが・・・刑事である西村は「ミステリ」の自我、アクションを行う安は「冒険小説」の自我、そして科学者である江藤は「SF」の自我なのだと思うのです。

これは作中で、三人が個別に活動する場面での展開からもそうした印象を強く受けるのです。

例えば西村は『SAKURA 六方面喪失課』の遠藤貢を連想させるキャラクターですし、その場面の雰囲気はどこかしら『女囮捜査官』とも空気感がダブります。

『神狩り』からスタートした山田正紀の「指向」は30年で様々に「分裂」(読者が思っているほどは違わないのかも知れませんが)し、現在再び私SF小説である『神狩り』の場所に立つ以上、それらの自我を「分裂させたまま統合させる」方法を選んだのでは無いか、と思うのです。

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実は『神狩り2』を読んでまっ先に思い出したのが、自分でも不思議だったのですが山田正紀『日曜日には鼠を殺せ』だったのです。
『襲撃のメロディ』が『エイダ』に、時代の価値観の転換からネガティブに投影されたように、『神狩り』の、というより当時の時代が持っていた「反権力」を意味する数々の記号、あるいはよりダイレクトな空気感が共通認識としての意味を為さなくなった現在、『神狩り』と『神狩り2』の間(時代?)に『日曜日には鼠を殺せ』の構造を挟み込んで読み取る必要が出てくるのでは無いか、という印象を受けたのです。
そうすることによってまた別の構造が浮かび上がって来るのです。

作品として正統に評価されていない気もする『日曜日には鼠を殺せ』ですが、『たまらなく孤独で、熱い街』同様、もっと多くの読者に読まれて評価されるべき作品なのだと、あらためて思いました。

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今回はここまで。
(5/17追記・・・
http://d.hatena.ne.jp/super_mariso/20050517
に追記をupしました)

後日まとめて「読書日記」にアップします。