『神狩り2』追記

http://d.hatena.ne.jp/super_mariso/20050516
の追記です。

山田正紀「あとがき」中の

「「カッコいい」SFに回帰したい、という思いで(『神狩り2』を)書きつづけました」
(『神狩り2』徳間書店、あとがきより抜粋)

という部分は昨日の日記にも引用しましたが、作中の主要人物、江藤が「SF」の自我である以上
(というより江藤=SFに対する山田正紀の自己投影という仮説が成立しなくとも、後述する状況証拠により)
作中で江藤を軸に語られる場面・・・江藤が脳について思い悩み、「事実」を発見するシーンこそが山田正紀にとっての「SFのカッコよさ」を体現する部分なのではないかと思うのです。

アクションシーンの「カッコよさ」は、やはり山田正紀の側面の一つである「冒険小説のカッコよさ」であるように思えるのです(むろんSFである以上SF的ガジェットは投影されていますが)

これは雑誌『SF Japan』での対談において、「・・・な言い回しをするとカッコいいでしょう?」という発言があったことを踏まえての考えです。

『エイダ』における「階差機械(ディファレンス・エンジン)」、『幻象機械』における「無中枢コンピュータ」=「幻象機械(イリュージョン・プロジェクター)」といったSF的造語の持つ、いわばSF的印象(『神狩り2』作中の言葉を借りれば「SFクオリア」とでも言うのでしょうか)を与える記号の「カッコよさ」に対し、山田正紀は非常に自覚的なのだと思えるのです。
(『神狩り2』に登場する「絶対機関(アブソリュート・エンジン)」という言葉の印象!)

そして(私の印象ですが)作中でそうした「SF的印象=SFクオリア」がもっともちりばめられた場面は・・・やはり江藤を軸とする場面なのです。

続きはまた。