単旋律

super_mariso2006-05-04

世の中には、旋律だけで完結できてしまい、外部の「和声」も「リズム」も必要としない曲が、まれにあります。

それはある種の民謡、民族音楽はもとより、近代、現代の作曲家が、西洋音階を用いて作った曲の中にもあるのです。

その旋律の中に、和声とリズムが内包されているから、という理由だけではありません。
(それを言ったら、この世界に和声とリズムを内包しない旋律は存在しないのです)

旋律の構造そのものの問題でも無いと思います。

それを言えば、全ての音楽はBPM・・・テンポを極端に速くしていけばリズムは「一定周期の周波数」・・・単音になりますし、極端に遅くすれば単音の周波数も「聴き取れる一定のリズム」になります。

単音はまた、様々な倍音の集合により音色を作っています。

全ての音は、音単体でリズムと和声なのです。

そして・・・しかしここで話題にしているのはそうした「極論」ではなく、もう少しマクロな話です。

ジャズの世界では、例えばオーネット・コールマンの曲の中にいくつか見受けられます。

いくつかの曲は・・・和声はもとより、リズムもまるで必要としないのでは無いか?と考えています。

しかも民謡や民族音楽の「和声やリズムを必要としない」感覚とはまた違います。

これはアルバート・アイラーの曲(これは民謡や民族音楽のもつ「うた」の感覚として、単旋律単体で完結する気がします)とくらべた時に何となく理解してもらえると思うのですが。

その、オーネット的な意味合いで・・・凄い曲があるのです。

武満徹さんの曲なのですが。

ほんの9小節。たったの9小節なのですが。

これは凄い。ホントウに凄い。

旋律だけで、和声もいらない。リズムもいらない。

感動しました。

いや、感動しない人もいるのかもしれませんが・・・精神状態、体調、そしてタイミングで左右されるそうした「感動」に運良く巡り合える時ってなかなかないですから。

なぜ今その話題なのかといえば・・・『芸術新潮』2006年5月号のP86にその曲が掲載されているからなのですヨ。
今ならばだれでも観ることが出来ます。演奏することが出来ます。歌えます。

巡り合うべき人は巡り会っておいた方が良い気がします。

という話でした。