追悼・吉村昭氏について・・・

私が高校生の頃、小田急相模原の商店街にはまだ本屋さんがあった。
現在、新刊の本屋さんがないのが本当に残念なのだが。

私が『星への旅』を買ったのは、その商店街の小さな本屋さんだった。

たしか修学旅行の帰りで、店主の男性が「旅行帰りですか?」と声をかけてくれたのを憶えている。

吉村昭という名前はその時初めて知った。

知らない作家の小説を読みたいと思い、タイトルと、控えめながら上品な装丁に惹かれて買ったのだ。

短編集だったが、その全ての作品が、心のどこか、それぞれ別々の場所に居座るような作品達だった。

『鉄橋』のラストの情景・・・『少女架刑』のイメージ・・・

それらを心の中に大事にしながら時が過ぎ、大学受験のために予備校に通い、その売店で『高熱隧道』を見つけた。

衝撃だった。

なんて小説なのだ!なんて作家なのだ!そう思った。

『星への旅』から『高熱隧道』の振り幅こそ、私が「文学」に求めていたもの、だと思った・・・

・・・そして、その文体も、私が求めていたモノだった。

その小説手法は、アメリカ文学、特に「ロストジェネレーション」の作家群に影響を受けた、と吉村氏は『私の文学漂流』で述べているが、確かに豊かな情感をあえて行間に隠した硬質とも言える文章は、そうした作家の文体に共通の資質を感じる。

しかし、出発点はそこであっても、結果的に、独自の文章作法を確立し、日本文学において唯一無二、比するもののない独特な語り口を獲得している。

その独特な文体と構成力を継ぐ純文学作家がいるのかどうか、私は不勉強なため知らないが・・・別ジャンルにおいては、おそらく谷甲州氏に多大な影響を与えていると思われる。

(ある雑誌で、谷甲州は「自分の本だったらと思うくらい好きな文庫本ベスト3」というコーナーで、『高熱隧道』をベスト1に挙げている。

また、谷甲州『惑星CB-8越冬隊』には『高熱隧道』に登場する「ホウ雪崩」を『高熱隧道』に対するオマージュ的に登場させている)

・・・

『高熱隧道』に出会ってから、十代後半の私は、本屋さんの棚にある吉村昭氏の作品を見つける端から買い求め、浸るように読み続けた。

小説はもとより、味のある随筆も好きだった。

頑固なこだわりと思い込みが結果として巧まぬユーモアにつながり、ニコニコしながら読んだものだった。


・・・例えば

「今日はカレーライス、と朝言われて、夜になってみるとすき焼きだったとする。しかし頭がすでに『カレー』になっているため、例え美味しいすき焼きを食べていても、カレーの香ばしい香りが頭をよぎり続けてしまう」

といった内容を、いつもながらの硬質で美しい文体でつづった(そこがイイ!)楽しい随筆がある。

そのタイトル
「頭が"それ"になっている」
という名フレーズはいまでも我が家で日常的に使っている・・・

あるいは
「洒落たレストランで「(料理にかけるので)ソースが欲しい」と店員に相談したら、嫌がらせのように一升瓶でソースがでてきた、しかし『酒飲みの修練をつんだ』吉村氏は、一升瓶のまま適量を料理にたらすことができた」話・・・

・・・こんな感じで全部挙げて行ったらキリがない・・・

そうした随筆や、全ての作品を通して読むことによって見えてくる、吉村氏の「世界の見え方」は・・・おそろしく骨太であり、様々な「思想」から最も遠い場所にある・・・

それは『高熱隧道』の取材の過程で、自分がその場所では「傍観者」にすぎないと感じ・・・その時感じた「距離」を、その後の作品群において常に保ったことにも由来するのだと思う。

あるいは若い頃結核を患い、現在のような投薬治療ではなく局部麻酔による肋骨除去手術により命をつないだことも大きいと思う。

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昨年、それこそ私が結核で入院した際、吉村昭氏の『神々の沈黙-心臓移植を追って』を病床で久しぶりに読んだ。

例えば、世界最初の心臓提供者を生み出すこととなってしまった交通事故を描く場面で、事故を起こした自動車の車種、年式、果てはナンバーまで正確に、執拗に描きながら、それでもなお「ノンフィクション」ではなく「小説」・・・「小説」としか言い様のない作品として成立するという構造・・・

この作品のあとがきにこそ、いわゆる「ニュージャーナリズム」と吉村文学の差異が書かれているように思えるのだが・・・

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以下抜粋
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「心臓移植手術は、具体的な事実である。しかし、戦争という人間の所行が事実でありながら虚構の領域に入りこんでいるように、心臓移植手術も、人間の奇怪な本質に触れた虚構の世界にあるもののように思われる」

吉村昭『神々の沈黙 心臓移植を追って』文春文庫刊 「あとがき」P322 L8からL9より抜粋)

・・・

世界を「虚構」として見つめながら、「虚構」に淫すること無く、ひたすら「事実」を積み重ねて(執拗に取材を重ね)深い情感を行間に隠しつつ描写し、現実と虚構を反転させる・・・

この構図は、名作『冷い夏 熱い夏』における、世界的にも類をみない独特かつ究極の「私小説」に結実するのだ。

いや、谷甲州氏が指摘するように、これはある意味において「SF」が目指すセンス・オブ・ワンダーとも言える。

そんな「小説」は世界的にも少ない。

個人的には・・・トルーマン・カポーティー『冷血』以上に評価されるべき作品群だと思う。

・・・

そして、硬質かつ無駄のない文章は恐ろしく映像的だ。

例えば・・・『水の葬列』の描きだす美しさよ。

文学に少しでも関心のある人で、この作品を読んだことのない人がいたら・・・絶対に読んでほしい。

(余談だが、新潮文庫『水の葬列』に収められた短編は全て必読である。そして・・・それを踏まえて『冷たい夏 熱い夏』を読むと・・・その隠された情感がよりいっそう伝わりやすくなると思う)

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取り留めのない文章になってしまった。まだまだ語り尽くせないのだが・・・

『高熱隧道』
『破獄』
『逃亡』
『神々の沈黙』
『水の葬列』(及び、新潮文庫版に収録された作品)
『冷い夏 熱い夏』

・・・本当は全ての作品を読んでほしいが、まだ吉村昭氏の世界に触れたことのない人のために・・・

『高熱隧道』
本の薄さが信じられない程の内容。驚異の小説。必読。

『破獄』
一般的に読みやすく、なおかつその重層的な構造に舌を巻く長篇。

『逃亡』
戦争小説であるが、逃亡する心理・・・いや、個人の、本人の意志と関係なくのっぴきなら無い状況に追い詰められる心理を描いた傑作だと思う。

『神々の沈黙』
心臓移植黎明期の状況を追った傑作。詳しくは上記。

『水の葬列』
幻想的な中編。読後にその情景がいつまでも心の中に住み続けるような傑作。

『冷い夏 熱い夏』
実弟のガン闘病を見つめ続けるその視点。一人でも多くの人に読んでもらいたい、日本文学史上の傑作。

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また、おりを見て、書きます。