本日の読書日記

山田正紀『篠婆 骨の街の殺人』(ネタバレ注意です)
SFの諸コード、ミステリの諸コード。その二つの書き分けに異様な程こだわり抜いて来た山田正紀がついにその二つを一つの作品で等価に混在させた作品です。
恐ろしいのは、作中の様々なトピックがそのどちらのコードに回収されるのかが最後まで分からないことです。
…そしてさらに恐ろしいのはこのシリーズが止まってる事(涙)
「次に持ち越し」のトピックもあるのに…
それらが果たしてどちらのコードに回収されるのかが見どころでもありますが。

この作品まで(その後の作品でも)SFとミステリの「コード」の書き分けに関して恐ろしく潔癖だった山田正紀なので、それまで読み手としてはトピックの回収がSFならSF的にミステリならミステリ的に行われるつもりで読んで来たのですが、これは困る。脳が困る。この「困る」感覚が非常に面白いです。
(逆にイライラする人もいるかも知れません)
とりあえず、ベースは「ミステリ」であり、ミステリ内部で回収されるトピックはシリーズ一作目の『篠婆 骨の街の殺人』内部で回収されます。
しかしそこにいたるまでの「困る」感じはなかなかに楽しいです。
これ自体がいわゆる「ミステリの脱コード」と言えなくもありません。
(しかしミステリ内部の「謎」に関してはあくまで「フェアなパズル」なのですが)
しかも視点をずらして「SFの脱コード」としてこの作品を読むと全てが反転するのです。
まさしくこれは「作中」の現実を幻想に転化するという『恍惚病棟』以来のテーマの体現であり、島田荘司『奇想、天を動かす』を「究極のアンチSF」と評した山田正紀にとっての「アンチミステリ」「アンチSF」であり同時に「本格ミステリ」「本格SF」なのでしょう(相反するそれぞれがそれぞれの根拠を支えあうとでもいうか…)
だからこそシリーズの続きが出ないと…持ち越しのトピックがどちらに回収されるのか分からないのが歯がゆい。

で、この作品を読んでまっさきに連想したのが『チョウたちの時間』だったのです。
そこで『チョウたちの時間』を読み返してみて、ふとあることを思い付きました。
山田正紀の作品で猫が重要な役目を果たすのはSFだけなのかもしれない」
山田正紀の全ての作品はまだ読んでいないので(『機械獣ヴァイブ』等はまだ未読なのです)言い切れないのですが、そんな気がするのです。
そして『チョウたちの時間』を読んで、あ、と思い付いたのが
「ひょっとしたら『猫』は山田正紀にとって、SFに張り出したミステリの自我なのかもしれない」
という妄想です。
根拠は希薄ですけど(笑)
例えば『神獣聖戦』に登場する猫ニーチェ、『エイダ』に登場する猫と猫という生命の解釈。
どちらも「現実主義」「個人主義」の象徴であり、しかもそれは人間から観た「現実∽幻想」を軽々と跨ぐ事のできるエゴイズムなのです。
「ネコはどんな”物語”も必要としない。どんな”物語”も信じない。ネコとはそんな生き物なんです。ネコだけが”現実”と”無場”の両方をテリトリーにして生きている…」(『エイダ』早川文庫P205 L6〜8)
「ネコという生き物は、人間よりもはるかに鮮烈に”平行世界”を意識していると思うな。ある種のネコは、自分たちが量子宇宙の波動関数に影響をおよぼして”平行世界”を決定していることを本能的に知っているんじゃないですかね」(『エイダ』早川文庫P501 L8〜11)
「現実を幻想に転化する」という山田正紀ミステリのテーマを考えた時、これほど適切な存在は無いでしょう。
(ネタバレになりますが、山田正紀
「密室とはある意味、マクロレベルの量子的空間である」
という発想があることが『篠婆 骨の街の殺人』で読み取れます。
それは作品中盤のシーンで具体化しますが、冒頭の「窯」のシーンからすでに「焼き物の窯=量子的空間」という暗示があります。なぜなら「篠婆陶杭焼から神を追放しようとした」という発言が有り、それは窯内部をカメラで見る事が可能となったことに由来することが分かるからです。観察によって(量子レベルでの話ですが。マクロレベルに転化していくと「シンクロニシティー」的なニューサイエンスの発想になって行きキリが無いと言えば無いです)結果が変化するという、量子力学の根底の発想と、アインシュタイン量子力学を批判して言った有名な言葉「神はサイコロを振らない」を知っていればそうした連想が働きます。
しかしなにより「著者のことば」で
『そして拙著『神狩り』読んで下さった皆様』
というのが暗示になってます。これも罠?)
しかし直感的に、というか安易に「あ」と思った理由は『チョウたちの時間』に出てくる猫、というか猫の外見をした生物の設定を読んだ時で、それは「反世界」の生物なのです。
反世界。ときたら「本格ミステリ中井英夫『虚無への供物』で完全にとどめをさされた」(『僧正の積木唄』収録のインタビューより)と述べる山田正紀が『虚無への供物』を意識しないはずが無いのです。無理があるかな。あるか。
猫とミステリという自分の思い込みな連想も働いての発想なのですが、妄想かも。

でも山田正紀ミステリには猫が出てこないのですヨ。
少なくとも私が読んでいる山田ミステリでは、ですが。
(『たまらなく孤独で、熱い街』では猫が登場し、ある意味、重要な役目を果たしますが、この作品はミステリでは無いはずなので例外として良いと思います)

そう考えると、SF側に張り出したミステリの自我、と読むのも悪く無いと思います。

ではミステリ側に張り出したSFの自我の象徴は何か?
これがまだ分かりません。
「鳥」かもしれませんが。これも安易な妄想かも。

次回、北村薫『盤上の敵』について書きます。