盤上の敵(ネタバレ注意)

北村薫『盤上の敵』を読みました。
(以下の文章にはネタバレが含まれます。未読の方は御注意くださいませ)
非常に良い本だと思いました。
一つはミステリとして。
これに関してはホントにネタバレになってしまうのでなにも書きません。
二つ目に、弱者の本として。
人間について強い弱いという言い方があって、他者に対してそうした判断基準を持つ人は自分に対しても強い弱いの評価をして、認識しているつもりでいます。
しかし自分に対しての評価はあくまで主観であり、それを基準とする限りその人間が他者を強い弱いと断じることは出来ないはずです。
…なにを言ってるのかと言えば、社会生活をこなすことの可能な人間には想像出来ない深い深い「弱さ」があるということなのです。
これはそうした「弱さ」をもつ人間で無い限り、あるいはそうした人間と深く関わらなければ理解し得ない概念です。
そしてそうした「弱さ」を持たざるを得なかった人間の隠れたポテンシャル、言い方を変えるとある種の「強さ」もまた、「強い」か「弱い」の二元論で他者を断じる人間には理解出来ないのです。
私はかつて身近にそうした人の傍にいて、その生きる喜びと悲しみとを感じたことがありました。
それは「人間が他者を不幸にしたり幸福にしたりできるなんていうことは思い上がりだ」という昔からある言い回しが言い訳にしか聞こえなくなる徹底した極限状況であり、他者によって簡単に死の淵まで追いやられる、あるいは他者によってその状態から簡単に救われるという綱渡りのような状態が延々と続く日々なのです。
『盤上の敵』は、私がその人の傍にいて感じた「人間が生きる」と言うことの喜びと悲しみを
「ああ、分かる。この感覚」
というようにハッキリと思い出す本でした(悪い意味ではありません。この本がそれだけ深く切り込んでいるという意味です。文章の持つ力ってやはりスゴイ。そして読書とはやはり個人的な体験なのだな)
これから読む人にとって「他者というものが何なのか」と考えるきっかけになるといいな、と思います。

ただ、気になる点がいくつかあることはあります。
一つは、北村薫がどういったコトに対して嫌悪を感じるか、ということについてです。
話は少し廻り道します。
以前から「手塚治虫北村薫になにか共通する、この二人が特に敏感に感じ取って嫌悪しているであろう何かがある」と思っておりました。
手塚治虫は、無知と因習がループする閉鎖社会、それに伴う精神的な暴力に異常なまでに嫌悪を感じていたのでは無いか、というのが私の持論です。
きりひと賛歌』や最近コンビニ売りの単行本で復刊された『山棟蛇』等にそれは顕著に見られます。
手塚治虫は「ヒューマニズムに絶望している」という発言をしたらしいのですが、そしてその発言をどこでしたのか知らないのですが、しかしその発言は納得出来るのです。なぜなら手塚はそれを隠していないのですから。
そこにはいくつかの「記号」が見受けられます。
それは嫌悪を描く舞台であったり人物像であったりします。表情の場合もあります。
そして北村薫の諸作品にも同様に、ある種の「嫌悪感」を感じる事柄に対する記号を読み取れるのです。
抽象的には「知性と理性で理解出来ない悪意」に対してであるのですが、その記号として「無知」や「品の無さ」が使用されています。
そしてこの『盤上の敵』ではそれらが一層顕著なのです。
(「悪意」そのものが重要な要素ですので当然ですが)
これはある意味危険なことなのかもしれません。
一歩誤ると逆転して「無知」や「品の無さ」→「知性と理性で理解出来ない悪意」と受け取られ刷り込まれるかもしれないのですから。

そして一番気になったのが「思い付いた順番は?」です。
『盤上の敵』を書く上で、人物像とテーマが先だったのか、あるいは人物の行動と結果が先だったのか、です。
もし(ここよりさらにネタバレ注意)登場人物「白のクィーン」の行動が「前提」であり、「白のクィーン」を「白のクィーン」として描くための正当化の為に「白のクィーン」の境遇があったとしたら…
中学生の頃に、私が時代劇『必殺』シリーズを観ていると、後ろから母が
「しかし脚本家も大変だよね。『こいつは最後に仕事人に殺されても仕方が無い』と観ている人間に思わせるだけの悪事を悪人に毎回毎回やらせなきゃいけないんだから」
…『盤上の敵』に関しては、考え過ぎであることを信じてますが…その点がまったく気にならなかった、といえば嘘になります。
(だって犬が…犬が…)

…上記の問題は私の深読みですのであんまり真に受けないで下さい。
(あと細かい事を言えば、「テレビ制作者」の描き方が伏線の範疇を出ていなかったのが若干物足りなかったくらいです。
物足りたい方には中島らもガダラの豚』をお薦めします)

確かに北村薫の「おだやかな」ファンにとっては厳しい小説かも知れません。
特に女性にとっては非常にショッキングな内容を含みます。
もっとも、単純に「毒」ということを言えば私の場合、以前雑誌『ダ・ビンチ』で漫画『野望の王国』を取り上げている北村薫の文章を読んで「やはり恐ろしい人だ」と思っていたのでそれほど意外には思わなかったのですが。
閑話休題。今は無き雑誌『奇想天外』、1979年に谷甲州が新人賞に応募した時の審査座談会で、谷甲州の作品『137機動旅団』作中でネガティブに描かれる「兵士による民間人の大量殺りく」や「和平交渉の会場となっているビルにミサイルを打ち込む」等の行為に対して、審査員の星新一は「あたりまえの対処だし、なんとも思わんけどなあ」と発言しており、それを読んで「この世代の『毒』はさすがに凄い」と思ったものです)
「尊厳小説」というモノがある、と以前この日記に書きました。
『盤上の敵』は「尊厳小説」なのでしょうか?
前半ではそう思って読んでいたのですが…読み進んでいくと少し違います。
尊厳を謳うことすら出来ず「生きる」ということ、その意味を何かに(神に?自分に?)問いかけ続けて地上で生きるしか無い人間の悲しみと希望が描かれていることに気がつきます。
そしてこの内容でエンターテインしている点が凄い。

読んで無い人、読んで下さい。
この作品はけっして大袈裟な作品では無いのです。
本当に身近な「人生」なのです。