33

歳になりました。
古語でEE歳とも言います。通じないって。
(楽隊用語で1=C=ド。数字をアルファベットで言い換えるのです。3=E=ミ)
おヨヨ、鏡に写せば33じゃないか。
ボルヘスとかあるいはレイモンド・ルーセルあるいは寺山か川又千秋か。
そして、楽隊用語でふた桁以上なら、例えば15000ならばC万G千…ツェーマンゲーセンというのですが…
E十EならE+Eだな。
タイポグラフィーっぽいなあと思いつつレッスン後帰宅。
『ボーリング・フォー・コロンバイン』をテレ東吹き替え版で観ました。
なかなか気の効いた吹き替えで、要所要所がしっかり字幕でした。
そしてやはり良い作品です。

現在公開中の「華氏911」はまだ未見なのですが、いくつかの文章で「主観的で恣意的でありドキュメントと言えるのか?」という意見だけは先に眼にしています。
観ていないのでなんとも言えませんが、いわゆる「報道」と「ドキュメント」→「ノンフィクション」との違いを踏まえれば「華氏911」に関しては、私はどれほど恣意的であっても良いと思っています。
これが「報道」であればそれは意識的な「情報操作」あるいは無意識による「情報のヒエラルキー化」なのですが。

…順を追って書きますと(それでもかいつまんでですが)
その昔(ちょっと前です)アメリカの作家トルーマン・カポーティが「事実に基づく小説」…『冷血』(実際に起きた一家惨殺事件に取材した小説形式のノンフィクション作品)を発表し、それ以降「取材者の主観により取材内容及び事件を時間軸を含め再構築するノンフィクション」を指す
「ニュージャーナリズム」
という単語が生まれました。
このあたりの流れは柳田邦男『事実を見る眼』『事実の時代に』や沢木耕太郎『紙のライオン』『地図を燃やす』『象が空を』を読むと少しわかりやすいはずです。

私は『ボーリング・フォー・コロンバイン』を「映像によるニュージャーナリズム作品」と定義できるのでは無いかと考えています。

そしてその流れの延長に『華氏911』があるのなら、それは作者と取材対象の距離や主観や先入観を前提においた作品であり(むろんその点をどのように回避するかがニュージャーナリズムの課題であるのだけれど)それを「恣意的である」という観点から否定したり「ドキュメントと言えるのか?」と作品の位置付けを過って認識していたりという場合、むしろそこに、ドキュメントとノンフィクション、報道、ジャーナリズムに対する先入観や混同を感じるのです。

とはいえ何度も書きますが『華氏911』は未見なので、観てから意見が変わる可能性もあります。
これはあくまで『ボーリング・フォー・コロンバイン』と作品の構造が共通であることを前提にしているのですが。
…早く観に行かないと。

追記
ニュージャーナリズムに関心のある方でまだ上記の本(柳田邦男や沢木耕太郎の考える「ニュージャーナリズム」について書かれた文章を収録した本)を未読の方には、是非とも読むことをお薦めして、あと二人の著作で特にニュージャーナリズム的である作品群(沢木耕太郎『一瞬の夏』『テロルの決算』柳田邦男『マッハの恐怖』『犠牲-サクリファイス』等)そして小説の方向からジャーナリズムに接近して行った重要な作品群、すなわちトルーマン・カポーティ『冷血』や吉村昭戦艦武蔵』『高熱随道』『神々の沈黙』『冷たい夏、熱い夏』をお薦めします。
特に吉村昭戦艦武蔵』は沢木氏も日本のノンフィクションを語る上で重要な作品として挙げています。
個人的には吉村昭『高熱随道』が恐ろしく好きです。
現実(ノンフィクション)が最後の最後で虚構(フィクション)に収斂していく驚異的な作品であり、日本文学史上の隠れた大傑作だと考えております。
そして谷甲州が「これはSFだ」と言ったのも非常に良く分かるのです。
ノンフィクションでありSFであり純文学である異常な作品なのです。
読んで驚嘆して下さい。
『冷たい夏、熱い夏』には壮絶な感動があります。
これも読んで驚嘆して下さい。