調性の話し…その2

さて、以前「調性」について書きましたが(http://d.hatena.ne.jp/super_mariso/20041003)気にしているといろいろ目に入るし、なんでも関連があるように思えてくるので、これも例外では無く、現在あちこちの楽器屋さんやCDショップに置いてある『ローリング・ココナツ』最新号
http://rollingcoconuts.com/
オータサンインタビューは良いですヨ。
私がもともとウクレレに関心を持った切っ掛けは、この独特な「調性感の柔らかい不安定さ」にあるのです。
根音がありその上に和声が乗っかるという「和音のヒエラルキー」が無く、全ての音(4本の弦だから最大同時発音4音)が等価である、というのはとても楽しい。
和声をウクレレで弾いた時、それがなんと言う音名の和声なのか、いくらでも解釈出来るのです。
別の言い方をすれば確定しない和音が連続する楽器とも言えます。

それを普通の楽器として扱う為に、例えばLow-G弦を張ったりして低音を設定し、調性をわかりやすくもするのですが、もともとそのLow-Gを張っていた元祖とも言うべきオータサン
「Root(根音)がないのになぜ一度聴いただけでコードを聴き取り、覚えられるのですか?」
という質問に対して
「第一回転形とか第二回転形(どちらも和声の並び変えのこと)とかゼンゼン気にしなかった。同じ音を持っていたらそのコードになるんだから」
(質問、解答共に『Rolling Coconuts#24』から抜粋、要約。()内注釈は筆者の解釈)
という直感的な「聴いたそのまま」解釈をしているのが非常に面白かったのです。

コード進行や和声の構造の持つ強制力やヒエラルキーが、ここでは非常に薄いのです。

私がなぜ同族楽器によるアンサンブルや、音域の重なる楽器のアンサンブルを好むのか、というのもこのあたりと関係しているのですが…

ガチガチに役割分担のはっきりした融通の効かない世界よりもふにゃふにゃな柔らかい世界の方が、私は好きなのです。

音が集まって和声ができると、そこから逃げられない…なにか前に日記に書いた(http://d.hatena.ne.jp/super_mariso/20041023)『単独行の加藤文太郎』の登山哲学とも共通するなにかもありそうですが、逃げられないのはその音の集合に強制力が発生するからであって、個々が等価であれば、それぞれの音は自由なはずです。
これはアレだな、いわゆるアナーキズムとも通ずる思想だけど、いわゆる直球の無政府主義ではなく「アナーキズムの社会性」という一見矛盾したテーマを内包してもいますね。

また続く…かもしれません。

そうそう、本屋さんにはまだ加藤文太郎特集の『山と渓谷』を売っているので、未読の方は是非。
Rolling Coconuts』も(こちらは楽器屋さんかCDショップで。無料!)是非。