差音の話をやっとこさ

ちょっと音楽の話を書きます。
やっとこさ書きます。
恩師の一人、サックス奏者雲井雅人氏のホームページ(http://www.kumoiq.com/)内のエッセイを読んで、あ、と思った事があるのです。ちょっと引用させていただきますと…
(以下『』内抜粋)

『(前略)今月発行された「ザ・サックス」誌の記事の中に、雲カルのインタビュー記事を載せていただいている。なぜ僕たちが「同じ奏法」にこだわるのか、それはこういうことだ。「かけ離れた奏法だと差音が出ない」の一言に尽きる。いくら音程が合っていても、音の傾向があまりにも違うと美しいハーモニーになりにくい。音の傾向さえ合っていれば、(他の管楽器や弦楽器のように)違う種類の楽器とでも美しくハモる。(後略)』
(雲井雅人『小言ばっかり』2004年3月24日付より抜粋)

上記の文章中、特に
「なぜ僕たちが「同じ奏法」にこだわるのか」と「(他の管楽器や弦楽器のように)」から、気が付いたことがあってですヨ

…その昔、アンドレ・プレヴィン(指揮者・ピアニスト)が
「私はどんな音も聴き取れる。しかしエリントンの3管のハーモニーはどうしても音が分からない…」
と発言した事がありまして、その原因の一つが
「和声において、倍音の干渉によって発生する音=差音」
なのですヨ。

ところがです。
エリントンオーケストラのサックスセクションは、あれほどに音色が一人一人異様に個性的で、一人一人音が立ちあがっているのですよ。
それなのに、なぜハーモニーとして機能して、その上しっかり『差音』が発生する瞬間がたびたびあるのでしょうか。

これの秘密が、雲井氏の文章で少し分かった気がするのです。あくまで気がするだけですが。

書いてみます。
「…20年代〜40年代初頭にかけて、シカゴダウンタウン〜NYハーレムの黒人サックス奏者の間で口頭伝承的に形成されたサックスの奏法は、奏者一人一人まるで違う楽器であるかのごとく個性的な音色を獲得しながらも、そこに同じ『音の傾向』(音色は他の楽器であるかのごとく異なるのに)が見られる為、エリントン・オーケストラの和声において「差音」が発生するのではないだろうか?」

なんかよくわかりませんね。

いわゆる、我々がイメージする「ジャズのサックス」の奏法はダンスホールと酒場で生まれたものだと言えるでしょう。
(初期のニューオリンズ・ジャズの時代、花形はトランペット、というかコルネットで、サックスは、テナーサックスがベースの補助をしているにすぎませんでした。それをソロ楽器にしたのがコールマン・ホーキンス
ダンスホールも酒場も騒がしい。その中で隅々まで生音で聴かせる為に、楽器をフルにブロウする独特の奏法が黒人プレイヤーの間で
「いいかい、こうやるんだ」
といった感じで口承され、独自の奏法が確立されていったのです。
(エリントン本人のピアノは成立の流れがまた少し独特です。
クラシックを学んだはずのエリントンのピアノの奏法が、当時の黒人的ブギピアノ→ストライド奏法を消化し、さらに独自のブロック・コード的な奏法に変化して行ったという流れは、ある意味、日本の「大野政夫・和洋合奏団」における大野政夫のピアノプレイ…無声映画伴奏で、生音の演奏で太鼓等の鳴りものと渡り合うために独自のブロック・コード奏法をあみ出した状況と共通の要素があります。閑話休題

で、奏法が共通しているならば、倍音の出方も似てくる。
それならば音程がビシっと純正調でなくとも、倍音の混じり方如何では「差音」が発生しちゃうんじゃないか?

いわばコミニュティー、文化が生んだ音だとも言るでしょう。

なんてことを考えたのです。

そしてついでにドルフィーの音についても。
なぜならば。
エリック・ドルフィーのような決して混じる事のない、いわば「主張しすぎる音はハーモニーしにくい」(雲井雅人『小言ばっかり』2004年3月25日付より抜粋)代表のように思える奏者の音も、実は上記の奏法の「先祖帰り」であると私は考えておりますのですヨ。
ドルフィーが活躍したのは1950〜60年代ですが、ひょっとしたら20年〜40年代であれば、アンサンブルにおいて「差音」が発生し易い音に聴こえたのかもしれません
(この辺、時代による録音技術と録音手法、傾向の差によって物理的には検証不能であり、あくまで推測の域を出ませんが)

ああ、やっと書けた。
ホントはエリントンのハーモニーについては、他にも地道に地道に以前から研究しているので、また整理して、HP内の「音楽メモ」に記録します。
フランス近代作曲家を研究しまくったギル・エヴァンスとの、ハーモニーに対する発想法の違いなんかも。